殺戮の実態

 最初の写真は航空機による爆撃です。次の写真はイスラム国戦闘員が捕虜となった民間人を処刑する直前の写真です。どちらが残酷かと問えば、ナイフで首を斬りつける二番目の写真のほうが残酷だと思う人が多いでしょう。

 航空機による無差別爆撃で失われる命は百、千という単位。一方、イスラム国戦闘員による処刑の犠牲者は一人。命の重さに軽重はなく死者の数が多いほうが残酷だとする論理はある意味不謹慎ではありますが、単純に数で見るなら一度に何百、何千という命を奪う爆撃のほうがはるかに残酷な行為です。

 ナイフによる対面の処刑は問答無用で直接、感性を揺さぶります。しかし、バラバラと落とされていく爆弾の一つひとつが地上で破裂して多くの人々を殺傷するということは、頭の中でそのように順を追って想像を巡らせねばイメージできません。

 湾岸戦争の頃から、戦争、紛争の報道が臨場的になりましたが、それでも人が直接、殺傷される場面が伝えられることは稀です。報道の多くは発射されるミサイル、飛び交う戦闘機、砲撃する戦車、発砲する兵士、そして着弾して黒煙を上げる建物、炎上する車両などです。「いやだなぁ」「怖いなぁ」とは思いますが、ミサイルや戦闘機の攻撃の先で何が起きているのか、砲撃、発砲を受けた相手は実際にどんな状態になっているのか、そこまで想像する人は少なかったのではないでしょうか。

 今、「イスラエル軍がガザを空爆」というニュースが毎日、伝えられます。これまでは「空爆」という行為の先に、どんな現実が展開しているのか、多くの人は漠然としか想像していなかったでしょう。しかし今回は連日、爆撃で傷ついたパレスチナの子どもたちの痛々しい映像が伝えられます。崩壊した建物の灰色の塵灰にまみれて血を流す子どもたち。狂ったように取り乱す親たち。病院そのものが攻撃されて混乱する医師たち。

 胸が締め付けられる映像ですが、爆撃という行為の先にはこうした地獄絵図が展開されるのだということ、戦争の現実とはこういうものだということを、私たちは再認識しておくべきでしょう。そして、「やられる側」になればこうした現実が待っているということと同時に、防衛だろうがなんだろうが「やる側」にまわった時には、相手側の子どもたちをこうした状況に追い込むのだということも、忘れずにおかねばなりません。

 防衛費という表現を使いながら国民の生活苦をよそに増額される日本の「軍事費」。その予算を使う果てにはこんな現実が待っているということを忘れてはいけません。日本の軍隊(自衛隊と呼ばれていますが)は「敵基地攻撃能力」が容認されています。今回のイスラエル軍の病院攻撃は「ハマスの拠点だから」、救急車への攻撃は「ハマス戦闘員が同乗しているから」でした。攻撃(防衛)の理由はいくらでもつけられるのです。

 「防衛」「敵基地攻撃」が始まれば、日本の子どもたちも相手国の子どもたちも、崩壊した建物の塵灰にまみれて血を流すのです。これからは、ガザ以外でも「爆撃」という言葉が発せられるたびに、必ずこの悲惨な実態にまで思いを巡らせるようにしましょう。