心神喪失 ?

 京アニ放火事件の容疑者に対して責任能力うんぬんの話がでています。この事件のようにとても残虐な犯罪が起きたとき、その手口の異常性から犯人は「心神喪失」状態で責任能力がなかった、とする見解が弁護団から出されることがあります。

 心神喪失というのですから、心理的にまっとうなものは全て失われていた、心が壊れた状態だった、ということです。心が異常な状態にあったときに起こしたことなのだから、普通に法を適応させて裁くべきではない、ということのようです。事実、心神喪失を理由に通常の殺人事件より刑が軽くなったり、時には無罪になる事件もあります。

 かねてから私はこの「心神喪失」による減刑、あるいは無罪という概念に大きな疑問を持っています。

 

 もし犯人が心神喪失状態でまともな判断力がなかったというなら、なぜ標的になる人を「殺す」という具体的な判断が下せたのでしょうか。放火とか、爆破とか、発砲とかの手段を選んだということは「そういうことをすれば人が死ぬ」という理解があることが前提です。刺殺にしても、ただ闇雲に刃物を振り回した結果ではなく、ちゃんと致命傷になる部分を狙って刺しているわけです。「人のどこを傷けたら命を奪える」ということを理解した上で実行しているわけです。

 そもそも何かの理由で「殺してやる」という意志を想起すること自体、動物にはできない高度な知的判断です。その上で「どういう方法を用いれば人が死ぬか」という概念を理解し、その(悪い意味での)正しい手順に従って、(犯人側から見れば)効果が出る方法で、想定したとおりに、狙った相手に対して実行することが殺人です。

 このように整然とした判断が連なった末の結果を「心神喪失の状態で行われた」と断じることは、かなり無理のある論理だと思うのです。「無差別な殺人」といわれるものでも、少なくとも「殺す相手は誰でもいい」という明確な意志があるわけですし、敢えて大勢の人がいる場所にわざわざ出向いて、それが可能な方法を選んで実行するという整然とした行動が取れているわけです。

 京アニ事件の犯人も、大量のガソリンを撒いて放火すれば瞬時に火災が起きて人の命が失われる…と想定したからこそ、必要なものをしかるべきところから入手し、手順通りに実行したわけです。心神喪失している人間なら、そうした因果関係を想定した上で手際よく実行することはできないはずです。

 考えてみれば、殺人なんてまともな精神状態ではできません。もともと広い意味での心神喪失状態で行われるのではないでしょうか。だから殺人犯が心神喪失であったか否かを問うこと自体、ナンセンスだと思うのです。まっとうな心理ではない、心神喪失の状態だからこそ殺人などというおぞましいことができるのです。殺人者の精神が通常の状態であったかどうかを見極めるなんて、最初から無意味だと思うのです。

 心神喪失にはきっと「法学」的な解釈があるのでしょう。でも、それは随分と私たち庶民の感情とかけ離れていると思います。