日本のスポーツと「声」

 少年サッカーの大会でよくある風景。ウォーミングアップのときから子どもたちがチームで声を揃え、大声を張り上げます。「1.2.3.4…」とリズムを取っていることもあれば、「いくぞ!」とか「ファイト!」とか、気勢を上げる掛け声をかけている場合もあります。先日、指導する子どもたちのチームがたまたま市の大会ベスト16に進出し、ベスト8をかけた試合に臨みましたが、もうこの段階まで勝ち進んでいるチームならば、私の指導するチーム以外(笑)の全てが、いろいろな形で大声を張り上げながら活動していていました。

 日本のスポーツ界では「声を出す」ということが「気合を入れる」ための必須行為であると思われているフシがあります。「声を出せ!」という指示は、種目を問わず日本中のスポーツ指導の場で日常茶飯に飛び交っています。黙々とプレーしようものなら「おい、声がでてないぞ!」と叱られます。

 ところで、わたしたちの体は、生理的な限界まで力を出し切ると筋肉や骨や心肺機能が壊れてしまうので、本当の限界の手前で「もうだめだ」と感じるためのリミッターが脳内についています。そのため「これが限界だ」と認識するのは、本当の限界の70%程度の段階とされています。しかし、脳を興奮状態に追い込めば、このリミッターが外れ、本当の肉体的限界まで力が出せるのです。

 脳を興奮状態に追い込むものの筆頭が「興奮剤」です。アスリートが手を染めてしまうドーピングの一種です。興奮剤は脳が「これが限界」と感じる作用を麻痺させますから、場合によっては死ぬまで体を追い込んでしまうこともあります。実際、ドーピングが問題視されたきっかけも興奮剤を飲用した自転車ロードレースの選手が心臓麻痺で死亡したことでした。

 大声で叫ぶことも、一時的に脳を興奮状態にしてリミッターを外す効果があるとされます。だから武道などでは一撃を加える瞬間に大声で「気合」を入れることで、その効果を最大に引き出そうとするのでしょう。そんな武道の影響からでしょうか、日本では西欧由来のスポーツをするときにも「気合」をいれるために「声を出す」ということが当然のようになってしまいました。

 もちろん、野球のバッティングとかサッカーのシュートなどの場面で、大声で「エイヤッ!」と気合を入れれば、普段より大きな出力を出せるかもしれません。でもサッカーの場合、90分間あらゆる場面で気合を入れることは難しいですよね。

 プレーで大切なのは一瞬の出力の大きさだけではありません。タイミングとか、角度とか、スピードとか、リズムとか、多様に複合される要素を冷静に分析・判断してプレーに反映していかねばなりません。その意味では、プレーの全てを「興奮状態」に追い込んでしまっては、かえって不都合なことがあります。

 また「みんなで揃って」声を出す形が定常化すると、自分の意志とは別の外的な状況から集団的な興奮状態が作り出されることになってしまいます。それは一体感とか団結力などを演出するには効果的かもしれませんが、一人ひとりが自分の意志で自分のプレーの心理的準備をするには、あまり効果が高いとは思えません。大勢の仲間がいて皆が盛り上げてくれている時はいいのですが、そうした条件が揃わないときに「自分なりの集中力の上げ方」に戸惑うことになりかねません。

 そんなことで、私はチームで「揃って声を出す」という画一化された行動をほとんど子どもたちにはさせません。今回も「コーチはあんなふうに皆で揃って大声を出せとは言わないからね。みんなは一人ひとりが自分なりに自分のやり方で闘志を燃やして”いくぞ・やるぞ”という気持ちを出してくれ」と伝えました。

 かつてイタリアの強豪ユベントスの練習をピッチ間近で見たときに、選手たちがあまりに静かで驚いたものです。リッピ監督(当時)の指示も、声を張り上げることなく普通の会話のトーン。でも指示ごとに選手たちは整然と動いて黙々とプレーする。もちろん、一つひとつのプレーには十分「気合」が入っていることは感じ取れました。

 見ている私たちがピッチサイドで無駄口をたたこうものなら冷たい視線を浴びそうなくらいの静寂感…。それでも目前で展開されているのはハイレベルなプレー。それ以来、ワアワアと大きな声で叫び合いながらプレーしている日本のスポーツシーンがなんだか滑稽に見えるのです。