サッカーだけでなく外交も「攻撃的」じゃなきゃダメなの?

 W杯に世間の目が向いている間に集団的自衛権行使容認の閣議決定を強行してしまいました。
 自分への攻撃でなくても「味方」の国が攻撃されたら守るために駆けつける、味方がやられているのを黙って見過ごさず、こちらも血を流して闘う!!!....一見、勇ましくて格好いい話です。まるでヒーロー戦隊もののストーリーのようです。
 韓国、中国との領土問題で、強硬な方法をとられ続けていることにたいして「ナメるんじゃない」「いい気になっているからガツんとやってやれ」「やられっぱないでいいのか」といった話が盛り上がっています。「おい、チョーシ乗ってんじゃねーぞ、いざとなってらやったっていいんだぞオラ」という姿勢を示せと...まぁこういう思考回路です。日本が平和主義だからって見くびるな、そんなものは「解釈」でいくらでもなし崩しにできるんだ!!いつだってその気になれば弾だってミサイルだってブチこんでやるぞ、ということです。
 悪知恵の固まりが歩いているような政治家たちは、いろいろと「言葉遊び」をしては日本が戦闘にかかわり、相手を攻撃することの正当性を示そうしています。「日本国民に危険が及ぶとき」「それしか方法がないとき」「必要最小限」などと、まぁ色々と言葉は並びますが、どんな表現にしようと、ほとんど意味がないですね。だって時の権力者がたった一言「私は日本国民に危険が及ぶと判断し、必用最低限のことだと思ったのだ」と言ってしまえば終わりなんですから。
 そもそも、近代戦争の全てが「自国の防衛」「平和の維持」をスローガンにして「やむを得ず」はじまっているのです。「これは侵略です」と宣言してはじまる戦争なんてただの一つもありません。みんな自分が正義だと言い張るのです。何か問題が起きたときに中国や北朝鮮が発表する公式見解を見ればわかるじゃなすいですか。自分たちは正義だ、全て相手が悪いのだって、いつも言っているじゃないですか。そういうものなんです。
 だから、日本が一発でも攻撃の弾丸を撃ったとき、いくらこちらが「国民の安全を守る必用最低限の処置です」と公言したところで、撃たれた側は「そうだったんですか。わかりました。じゃあしょうがないですね、こちらが撃たれて死んでも」とはならないでしょう。
 そして、これは最も重要なことなのですが.....日本の弾丸によって死傷した相手国の兵士や市民の家族、関係者はどんな感情をいだくでしょうか。日本側にどんな道理があろうとても、間違いなく「日本憎し」という怨念をいだくのです。その怨念は戦死者の親子、兄弟、親類、師弟らを「仇をとるまでは絶対にゆるさない」という「報復」の行動にかりたてるでしょう。
 世界各地で紛争が止むことがないのは、何も大義名分を守るためばかりではないのです。親を、子を、友人を...むごく殺された怨念が復習の強い動機になっているのです。ここでとりあげた写真は、とある内戦の記録です。死んだ友を抱きかかえて慟哭する若者は、この後、燃えるような復讐心で闘いを続け、友を殺した相手と見れば、強い怒りと共に何のためらいもなく弾丸を撃ち込むことでしょう。
 当然、この若者に撃ち殺された相手の家族、関係者は、同じように復讐心に燃えるのです。こうして憎しみの連鎖はとめどなく続きます。だから撃ったら終わりなのです。どんな立派な理屈をつけようが、そこで終わりです。
 今、日本では「守る」という部分に焦点が当てられていますが、日本に「撃たれる側」に思いを致す視点がかけています。戦場で血を流すのは阿部でもキムでもありません。将来ある若者なのです。