サッカーにも脳化社会が....

 養老孟司さんの言説は常に真理をついていて、それを読み聞きする私たちの視点を豊かにしてくれます。「バカの壁」とならんで最近、特に納得する養老先生提唱の説は「唯脳論」「脳化社会」です。

 今の社会はすべからく脳で生み出された理論によって作られている。あらゆることに「こうなれば、ああなるはずである」というセオリーを見つけ出し、そのセオリーに当てはまるように様々な仕組みを作り出し、その仕組み通りに行動することが最も合理的であり経済的であると信じている。しかし「最も理にかなっている」というその理屈を推進していくと、いつの間にか「理屈」を死守することが目的になり、それは実感、体感といった生物が本来、持っているものと乖離しておかしなものになっていく…というのが私なりの脳化社会の解釈です。

 養老先生は実体験として次のようなエピソードを紹介しています。ある時、役所で手続きをしようとすると「本人確認できるものをご提示ください」と職員。先生はもとより運転免許を持っておらず、その日は保険証も持ち合わせていません。すると職員は「それでは手続きできません、養老先生ということは存じ上げているのですが… 」と。

 そもそもは他者が不正をすることを防ぐために採用した「本人確認」のシステムだったはずですが、いつの間にかシステムを手順どおりに活用すること自体が目的化してしまい、人の感覚として「本人」と明確に判別できているのに、システム上の結論としては「判別できません」となってしまうわけです。

 サッカーの世界でもかなり「脳化」が進んでいます。11人の組織をどう機能的に作用させるかを突き詰めていくと、「こうなれば、ああなるはずである」という組織論、システム論が幅を利かすようになります。すると「危ないから防ぐ」「チャンスだから攻める」と感じて動くことよりも「こういうときにはどうするんだっけ?」「誰がどこにいくのだっけ?」というように「約束事の確認」にエネルギーを費やすようになってしまいます。点を取られたことも、あるいは点が取れないことも、要は目前の相手との競り合いに勝つかどうなのですが、そうした本質を横において、これには何かシステム的な不備があるはずだと考えるようになるのです。

 以前、Jリーグの記者会見でDFのミスで敗戦したチームの監督に記者が次のような質問をしました「彼にあのようなミスをさせないためには、今後、どのような対策が必要ですか?」百戦錬磨のスペイン人監督はこう答えました「それは彼に『もうそれはしないでください』とお願いすることです」。

 このやりとりこそ完全に「脳化」してしまった人と、まだ人間本来の感覚を重視している人の違いを象徴しているのではないでしょうか。DFが二度とミスしないようにするためには「そこで、そのときに、それをやるべきではない」ということを強く感じてもらう以外に有効な方法はないのです。しかし「これをやれば、そういうミスはなくなる」という”何かの仕組み”がそこにはあるはずだと...「こうなれば、ああなる」という理屈を探したがるのです。

 私は、指導する子どもたちが「脳化」することを恐れています。目前で起きることを「仕組み」や「論理」に落とし込んで定型化する前に、肌感覚でピンチとチャンスを感じ取り「今、何をすべきか」が決断できる力を身につけてほしいと願っています。

 しかし現実は…解説者のように戦術を論じる子どもが増えている一方で、例えばクロスが相手ゴール前を無作為に横切ってもだれも嘆きも怒りもしない、などという奇妙な現象が見られるようになっています。私に言わせれば、それがビッグチャンスだと感じず、それを逃したことが重大な失敗であると感じず、そのことを私たちが教えてあげねばないのなら、その子はもうサッカーを辞めた方がいいのです。

 でもまぁ…なぜお子さんにサッカーをさせるのですか?と保護者に問えば、「男の子だから何かスポーツをやってほししから」とか「チームスポーツで学ばせたいことが得られるから」とか、完全にサッカーそっちのけで「脳化」した理屈が返ってくるわけです。それではその子自身が心からサッカーの面白さとは何かを主体的に追い求めようとしないのも当然ですよね。