過剰対策は誰のため?

  withコロナという生活様式が求められる中、感染予防を前提として様々な活動が再開されています。アマチュアスポーツの試合、大会も「恐る恐る」といった体で始まりました。ようやく「スポーツのあるの日常」が帰ってきたことは嬉しいのですが、相変わらずあちこちで奇妙な現象に遭遇します。

 ある大会では、大会第1試合の14日前からの検温表を提出しなければなりません。大会の当日、試合に際して皆がしれっとした顔で14日前からの検温長を提出していますが、本当にその日の14日前から毎日、検温していたのでしょうか?

 もちろん、このご時世ですから、大会に参加するか否かにかかわらず、検温をルーティン化している人もいるでしょうが、現実にはそうではない人も多いはず。よろしくない事ではありますが、14日前から「計っていた」ことにして、表には実際は計っていない体温を記入している人もいるかもしれません。

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 そうした、曖昧な実情があることが前提であることを皆、内心、知っていて、ある意味「儀式」として表を提出している部分もある。しかし、大会本部は「提出しなければ絶対に試合に出さない」と息巻く。表の数値が本当に検温されたもなのか、適当に書き込んだものなのか、その区別はどのようにするのでしょう? もし、体温の高低が感染予防に大きな意味を持つという認識なら、試合直前に一人一人、実際にその場で体温計で検温すべきでしょう。

 子どものスポーツを応援する保護者も、密を避けるためなのか「ここから先は立ち入らないように」「声を出さないように」と厳しくを制限されます。しかし、制限区域外では皆、肩を寄せ合う距離で我が子の活躍に一喜一憂し、試合が終われば仲の良い家族同士で子どもも交えて長時間談笑している。仮に感染が起きたら「それは規定で制限した場所以外での感染です」と科学的に立証できるのでしょうか?

 あるグラウンドを使うのに、前の時間枠で使っていた団体と次の時間枠で使う団体が同一空間にいないようにと、誰もそこに立ち入らない「無人」の枠を間に1時間も設けている、というケースもあります。前の枠の利用者も、次の枠の利用者も、グラウンド外では日常的に他者と隣り合い、同一空間で過ごすことがあるというのに、グラウンド使用時だけは絶対に「他者と交わるな」という。

  同じ学校のクラスでA君は野球チーム、B君はサッカーチームに入っていて、普段は机が隣同士、というケースがあります。休み時間も仲良く遊ぶ。しかし、休日にその学校のグラウンドを使うときはA君とB君は別団体なので絶対に交わってはいけない、となるのです。奇妙な話です。

 ウイルスは「人間の理屈」に従ってはくれません。いつ、どこで、誰から、どのように、人の体内に侵入するかは、誰にもわからない。だから、皆、「少なくとも自分は予防に最大の努力をしました」というアリバイをつくっておきたいのです。過剰な予防策の徹底は、「コロナから皆を守ろう」という本物の人類愛の意識からというよりも、やはり「感染はオマエの対策が甘かったせいだ」と言われないためなのでしょうか?

 

 

「密」を避けるとは?

 先日、とある県営スポーツ施設で子どもたちの練習試合を行いました。使用時間は炎天下の11:00~13:00。人工芝のグラウンドは強烈な日差しに照りつけられ地表温度は軽く40度超えています。その施設は地形的に谷底に位置するため、風通しが極めて悪く、熱気がこもっています。熱中症への対策を万全にせねば、とコーチ間で話し合っていました。

 いつもなら利用者が三々五々入れる広い入口の門が、その日は堅く施錠されています。なぜか???管理室に問い合わせると、使用直前まで開門しないとのこと。多分、コロナ対策ということなのでしょう。けれども、それにどんな効果が...???施錠されているために、開門を待つ4チームの子どもたちとその父兄が入口前に大勢集まっていて、いわゆる「密」の状態が作られています。開門まで「密の状態で待て」ということでしょうか?

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 いよいよ入場時間になりました。係員は「入口はこっち」と脇の狭い入口を示します。その狭い入口を目指して4チームの子ども、父兄がどっと移動します。とても「密」な状態です。そして狭い入口に全員が殺到します、ここでもとても「密」な状態がつくられます。いつもの広い門を開放してくれれば、こんな「密」は絶対につくられないのに....???

 さらに驚くことが。管理者は「屋根があるスタンドには座らないで、人工芝のグラウンド上に座れ」というのです。長時間座っていたら低温やけどになってしまうであろうほど熱せられている人工芝の上に...!!!。多分、スタンドに座ると「密」がつくられるということなのでしょう。それにしても、炎天下、真上から太陽の日差しを受ける推定地表温度45~50度の場所に2時間座れ、という感性はどんなものなのでしょう?

 ふざけるな!!!と厳重に抗議しました。

 この炎天下、唯一の日陰をなぜ使わせないのだ!!!と。

 施設側は「しぶしぶ」という感じでスタンドへの入口に堅く貼っていたローブを外しました。私は「皆さん、密を避けるために必ず2席空けて座って下さい」とお願いし、全ての子ども、父兄がその「約束」をしっかり守ってくれました。皆が「2席おき」に座ってもスタンドにはまだ空いた席が十分ありました。

 後日、「先日スタンドを解放したことは特例です。次回からこの場所で日差しを避けて下さい」という「通達」がありました。この場所とは施設横にある木陰なのですが、スタンドでは「密」が生じるが、その木陰では「密」は生じない、という論理なのでしょうか?限られた木陰のスペースに4チームの関係者が殺到したら「密」は必然で、かえって危険です。

 いうまでもなく「密」をつくるかどうかは、場所の問題ではなく、その場にいる人の心がけ次第です。場所にかかわりなく、各自が「密を避けた行動をする」ことが全てです。施設側が利用者の「密」に関する良識が信じられないというなら、係員が常時確認に来て「密」になりそうな状態が見られたら「もう少し離れてください」とお願いすればいいだけのことです。

 「密」の回避を理由に炎天下でも屋根のあるスタンドを立ち入り禁止にしているのは、利用者の良識を全面否定する極めて高慢な姿勢です。「見回りが面倒だから禁止にしてしまえばいい」という怠慢な職務態度の表出です。彼らが次回から木陰の利用を促したのは、そこが「施設外」の場所で責任回避できるからでしょうか?

 よくある話なのですが、結局、守りたいのは子どもでも利用者でもなく「自分」なのですね。

 時間が来て、子どもも父兄も再び狭い出口に殺到し「密」な状態を保ったまま退出したのでした。

 

 

 

5名ずつ利用のロッカールーム

 本当なら今頃、日本中がオリンビックで盛り上がっているはずでした。梅雨明け後の猛暑を体感する中で、来年、本当にこんな劣悪なコンディションで最高レベルの競技が実施できるのか? 何千、何万という観客がこんな気候の中で移動、観戦に耐えられるのか?と思ってしまいます。

 さて、先日、サッカーチームの練習で使っている公共のグラウンドの管理者からこんなことを言われました。「選手たちの着替えは外ではなく、ロッカールームでお願いします。ロッカールームは5人までしか使えませんので、順番に使って下さい」

 管理者が「5名までの使用」と言ったのは、もちん、コロナ禍で「密」を避けるためです。ただ、コロナ禍とはいえ、たった5名ずつの利用にならざるを得ないのは、そもそもロッカールーム自体が利用人数に対してひどく狭いからです。

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(写真はイメージで本文とは関係ありません)


 コロナ禍うんぬんに関わらせず、もともと選手たちはその施設を使うときは外で着換えています。狭いロッカールームの使い勝手がひどく悪いからです。激しい競技サッカーの選手たちですから、着替えでは当然、下着も全部着換えます。

 施設の周囲は公園仕様になっていて、そこには子どもを連れたママとか、応援の女性も現れます。そこで何人もの若い男性がお尻を出して着換えている場面に遭遇したら、気持ちのいいものではありませんね。「あれは何とかしてほしい」と苦情が寄せられたようです。

 オリンビックで大騒ぎして巨大な競技施設が建設されている一方で、一般のスポーツ愛好者が利用する施設はロッカールームが狭くて使い勝手が悪く、外で着換えて女性から苦情を受ける、という状況です。しかも、そんな使い勝手の悪い施設でも、日曜日に確保しようとすると100倍を超える抽選倍率になっています。

 何か変ですね。お金をかける場所を間違えていないでしょうか?メダル、メダルと騒ぐのはいいのですが、スポーツの裾野をしっかりと整えずして、市民の中から優秀なアスリートは育まれません。

 オリンピック開会式が行われるはずだった日、池江璃花子さんが発したメッセージの中に「スポーツが決してアスリートだけでできるものではない、ということを学びました」とありました。ちろん、池江さんは関係者のサポートの支えについて感謝の念を持って語ったのでしょう。

 しかし私のように「裏事情」をよく知っている者にとってその言葉は「オリンピックは既に、スポーツそのものとはとはまったく関係ないところで大事なことが決まっていくようになってしまった」という意味に聞こえてしまいます。

 来年、酷暑の中でオリンピックが行われたとして、100倍を超える抽選倍率の施設で、若者が外でお尻を出して着換えざるを得ない状況は改善されるのでしょうか?

アスリートは政治の話をしてはいけない????

 雀士・黒川さん(笑)の一件に芸能人が批判的コメントを発表したことを批判する人がいました。曰く、政治をよく知りもしないくせに生意気を言うな。また、アメリカで黒人男性が警察官に殺されたことに抗議の声を上げたテニスの大坂なおみさんにも批判の声があったようです。曰く、アスリートは政治の話をするな。スポーツだけしていればいい。

 実にばかばかしい話です。人間で政治に関係のない人はただの一人もいません。生まれた瞬間から人権が生じ、戸籍が与えられ、法の規制や保護に囲まれて生きていきます。いや、人間だけではなく、ペットや動物だって、いろいろな法律、条例にかかわっている。電気をつけて、水道を使って、ゴミを捨てて、道路を歩いて、交通を使って、学校に行って、仕事やバイトでお金を稼いで、お金を払ってモノを消費して、危害が加えられたら警察に頼って、病気になったら医療の世話になって、互いの利害が衝突したら裁判に頼って...我々の人生の森羅万象が「政治」にかかわっているのです。

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 買い物中のママたちの「最近、野菜が高くてこまるわね、何とかならないのかしら」という会話の中にも、消費税、流通の合理化、商店の経営と法人税など、政治的要素が内包されています。自分たちが生きやすい世の中にしていく。そのために、皆がいろいろ知恵を出し、意見を出し合って世の中を変えていく。それが政治です。

 日本は住民の全てが政治に参加する方式ではなく、自分の意思を代弁してくれると期待できる議員に託す方式がとられています。ですから、その議員たちが何をしているかを監視し、いけないと思ったことをしたら批判して正していくことを、全ての人々が行わねばなりません。議員たちが行っていることに口出しすべきではない、というのは、まったくもって間違った考え方です。

 特にスポーツは「政治とは別」と強調されますが、政治と関係しないスポーツはあり得ません。その最たる象徴がオリンピックです。オリンピック招致に政治的策略を絡めない元首など存在しません。招致にともなって進められる建設、施設整備にかかわる業者と政治家の関係なしには大規模な開発、整備はすすみません。コロナ禍でワクチンの開発すら目処が立っていないのに、「来夏に開催する」とアベノマスクの送り主(笑)が息巻いているのは、自分の首相任期が秋に終わる前にどうしても「二度目のオリンピックを開催した首相」という名誉がほしいからでしょう。

 日本の各スポーツ団体の会長とか顧問とか理事とかを調べてみましょう、ずらりと政治家の顔が並んでいます。許認可を得たり交付金を得たりするのに、政治的な力が大きい人物と密接な関係を築いていることが有利だからです。また政治家も、そのスポーツ団体の構成員の数を利用して知名度アップを狙うのです。

 トップアスリートも政治家同様、知名度は高いので、その発言や行動は影響力を持ちます。でも、その発言や行動をどのように受け取るかはスポーツファンそれぞれの理性です。スポーツのプレーも好きだし、言っていることも好き...でもいいし、その反対でもいい。そのアスリートの思想、哲学、信条が支持されるか否かは、発信される内容によるでしょう。

 かつてボクシングのモハメド・アリさんは人種差別と戦い、テニスのビリー・ジーン・キングさんは女性差別と戦いました。それぞれの発言、行動がアメリカ社会の改革に多大な影響を与えたことは確かです。そういえば、現在、女性アスリート長者番付で大坂なおみさんが世界トップなのだとか。これもキング夫人の努力があってこそのことなのです。

 

 

 

 

神聖な大会の中止を機会に視点を変えたら

 インターハイ夏の甲子園など、学生スポーツの全国大会が新型コロナウイルスの感染防止のため中止になりました。「この大会のために全てを賭けてきたのに」という落胆の声がメディアで取り上げられています。各界著名人も「かける言葉もない」といったコメントを発しています。

 私はかねてから、学生スポーツに「唯一無二」と神聖視する大会があり、その覇権を「負けたら終わり」というノックアウトシステムで競うという形式に疑問を持っていました。

 予選の一回戦から「負けたら全てが終わり」なので、常に最強メンバーしか起用することができず、限られた数の選手だけが貴重な体験を積んでいく。主力はケガを押してでも出場を続ける。強豪校ではレギュラーの何倍、時には十倍を超える人数の「レギュラー外」の選手たちが、ひたすら下支えをするだけで満足な実戦経験もしないまま3年間を過ごす。

 「負けたら全てが終わり」なので、終わらないように強力な選手を全国から集める。「教育の一環」などは空しいお題目に過ぎず、スポーツ技能のみの評価で入学、進学が認められて、選手は全国をまたにかけて動く。全国から集められた選手は、学業が主体なのか、部活動が主体なのか、本末転倒したプロまがいの活動を、ナイター設備の整った専用グラウンドで展開する。選手は僚生活で管理され、徹底してスポーツ技能の向上に特化した生活を送る。

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 こうして、わずか17歳、18歳の少年たちに、唯一無二の大会に「全人生を賭ける」という意識が植え付けられていきます。だから、負けた途端に「全人生の終わり」「宇宙の終わり」という絶望感が襲いかかり、立ち上がれないほどに泣きじゃくる、というシーンが毎年のように繰り返されます。

 私は17歳、18歳の少年たちが「唯一無二」の神聖な大会にノックアトシステムで全人生を賭けるような方式ではなく、リーグ戦方式の大会をたくさん開いて、調子の落ちた選手、ケガをした選手が休めたり、レギュラーにボーダーラインの選手が試されたり、また、2軍、3軍の選手でもしっかり実戦経験を積めるような環境を整える必要があると思っています。

 17歳、18歳の段階で人生の集大成のような意識を持つのは早すぎます。そのために学業そっちのけでプロまがいの生活を送ることにも反対です。心身共に柔軟なハイテーンの時期は、唯一無二のことに全てを賭けて猪突猛進するのではなく、多様な見地を開拓し、自分の足らざる部分を知り、自立した大人になっていくための基板を整えるべき時期です。人生を賭けて猪突猛進するのはプロ選手の仕事です。

 いい機会です。学生時代のスポーツの目標が「たった一つの大会」であり、それで負けたり、あるいは大会自体ががなくなったりしたら、「一体何のために...」と呆然とするような設定はもうやめたらどうでしょう。試合自体は色々あるので、次の機会で上達の度合いを見極めればいい、とか、次の機会では新しいことを試してみよう、とか、次の機会こそは勝負にこだわってみよう、とか、そのようにスポーツ体験を通して豊かな体験をしつつ人として自立していく環境づくりにシフトしていくというのはどうでしょうか。

 少年たちが「負けたら終わり」という試練を背負ってひたむきに頑張っている姿に感動する。そこに学生スポーツの良さがある。という視点は、観戦する側の身勝手な思いです。学生たちは「見る人の感動」のためにスポーツをするのではありません。彼らには彼らの80年、90年の人生があります。そしてそれは、決して17歳、18歳で結論を出すような「軽い」人生ではないはずなのです。

オリンピック必要ですか?

 コロナ騒動で、今年開催するはずだったオリンピックが一年、延期されました。

 延期した後、いつ開催するのかに関して、さまざまな議論がありました。なぜなら、いつ再開したとしても、ほとんど全てのタイミングで各種スポーツのビッグイベントと開催時期がバッティングするからです。

 この延期後の開催時期に関する議論の中に、すでにオリンピックが今や特別な意味をもつ存在ではなくなっていることが示されています。

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 例えばサッカーでは、W杯が最も権威のある最高峰の大会であり、オリンピックはさほど大きな位置づけではありません。ですから、ある時期までは強豪国はオリンピックチームなど本気で強化せず、参加も「お付き合い」程度でした。

 現在、サッカー界ではオリンピックは「23歳以下」のカテゴリーのW杯と位置づけることになり、サッカー強豪国の意識も多少は変わりました。しかし23歳以下のチームは、いわば「 Bチーム」という認識ですから、今現在でも、強豪国ではオリンピックチームの成績などに深くこだわることはありません。23歳以下でも優れた選手はみなW杯向けのA代表に選出されているのです。

 同様に、野球はワールドシリーズが最も権威のある大会であり、バスケットボールもNBAを制することがオリンピック優勝よりはるかに価値があるわけです。テニスもウインブルドンを筆頭にメジャー大会の優勝が選手最大の目標であり、陸上でもマラソンを筆頭に、世界陸上や各種メジャー大会で優勝するこの方が重要な意味を持つようになっています。

 昔は、オリンピックがなければ一流の競技を観戦することができませんでしたが、今や、各種目ごとの世界大会が十分に充実してきています。そして、それらの大会では賞金も十分な額が準備され、そのことでアスリート生活を普及させる環境が整備されつつあります。オリンピックメダルの名誉だけに選手が人生を賭ける時代は遠のいています。

 このように、オリンピックは既に唯一無二のスポーツの祭典ではなくなっているのに、開催費用、原発の汚染に関してウソのプレゼンテーションを行い、賄賂を駆使して開催の票を集め、大会後の運営が赤字になることが必至の施設をつくり、人々の日常生活や交通に多大な負担をかけつつ、一ヶ月間に複数の競技を一斉に開催するという形式を強行することに意味があるのでしょうか?

 オリンピックはとうの昔に、その起源である古代オリンピックとはまったく異なる大会に変わり果てていていますし、近代オリンピックの創設に尽力したクーベルタンの理想ともかけはなれたイベントになっています。膨大な費用を嫌って開催都市に名乗りを上げる数が激減しています。

 現代社会にこうした形式のスポーツイベントが本当に必要なのか、コロナ騒動による開催時期延期は、オリンピックの意義を考えなおすいい機会ではないでしょうか。

  

 

抜け道を使っても速く正解を出しさえすればいいの?

 自分が指導するサッカーの練習でのこと。ボールリフティングに類する少し難しい技術的課題を示して「目標は5回」と言いました。

 ある子どもが「コーチ、これでもいいの?」と、見当違いな方法を示してきます。彼が示した方法は、確かに私の指示した「5回」という目標をギリギリ達成する「近道」ではありましたが、なぜその課題に取り組むのかという本来の「意味」から見れば、まったくもって「的外れ」な形であり、意味のない行為でした。 

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 その子は、別の課題を提示した時も、しきりに「コーチ、これもアリ?」と自分なりに解釈した方法の是非を問いかけてきます。彼が示すものは全て、私が指示する回数や距離などを達成するための、いわば「抜け道」的な方策ばかりです。

 最初は「そうではなく、このように」と一々、訂正していたのですが、提示するメニューごとにあまりにくどくどと問い合わせてくるので、「そのやり方で自分が上手くなると思うなら、そのやり方でやればいい」と突き放してみました。

 こんなこともありました。まずパスをしてシュートのお膳立てをする、それが終わったら次はシュートする側に回る、という形式の練習をした時です。気をつけるポイントは、シュートする仲間にコース、強さ、角度、タイミングを考えて上手なパスをする、ということでした。

 その子はしかし、パス役でボールを蹴った後は、自分の蹴ったボールの軌道や、そのパスを受けた仲間の様子を一切、見ることなく、脇目も振らずに一目散にシュートの列に向かうのです。「ねぇ、君のパスは今~君にうまく渡っただろうか?」と問いかけると、どぎまぎした顔をします。

 この子のように「なぜ、それをするのか」という意味を吟味せず、ひたすら機械のように形式的に動く一方で、それを合理的に短時間でクリアする「方策」を見つけ出すことに対しては異常なまでにエネルギーを注ぐ、という子どもが増えてきました。

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 これは、ただひたすら一定の法則性に従って計算問題を解くスピードを養成する学習業者に代表される、「テストで合理的に正解を出す」訓練を業態とする業者たちの戦略に、子どもたちが毒されすぎた弊害と分析しています。

 抜け道的な方法を使ってでも「とにかく結果として5回やればいのでしょ」という発想は、受験には役に立つのかもしれませんが、スポーツの訓練では最悪です。自分の力量と課題を棚に上げて、手抜き、省エネにエネルギーを投入するような発想は、まったくもってスポーツに向いていません。

 幸い、「目標は5回」と言う私のそばで「僕、10回に挑戦してみる」という子どもがいます。「コーチ、8回できたよ」と満面の笑顔で報告する子どもがいます。「そうそう、そういう気持ちはとても大切なのだよ」。こういう子がいるうちは、まだ大丈夫かな、と胸をなで下ろします。