こんなに悲しい笑顔はない...

 釘付けになって目を離すことができない写真があります。78年前、終戦の3ヶ月前の5月18日14時30分頃に撮影された特攻隊員の笑顔の集合写真です。あと30分で出撃というときに撮影されたそうです。

 左から2番目の隊員は撮影者に「御両親様、昭和二十年五月十八日十九時二十分頃、沖縄島周辺にて戦死す。十四時三十分出発前書す」と書いた紙片を両親への遺書として託されたそうです。

 戦闘服の彼らの格好をそのままユニフォームに置き換えたとすれば、2023年の今でも私の率いるサッカーチームで毎試合撮られているありふれた集合写真になります。写真の彼らと同年代のサッカーチームの選手たちには来週も再来週も、来年も再来年も試合があって、引退した後にも人生は続きます。しかし、写真の彼らの未来は、撮影後わずか数時間でした。

 この数時間後、彼らは自ら操縦桿を握って体当たりをして砕け散るのです。心身ともに健康そのものの若者が、科学的、論理的、戦術的にまったく裏付けのない、効果が期待できない、意味のない、愚策の極みである作戦のために自らの命を自らの手で抹消しなければならないのです。

 戦術・戦略的に考えた場合、どこをどうとっても無意味な暴挙であることは当の隊員たちが一番わかっていたでしょう。それでも命令が下れば自分の命を確実に断ち切る空に飛び立たねばならない。その出撃にあと30分というとき、彼らはどんな気持ちでこの笑顔をつくったのでしょうか?

 短いけれど幸せな人生だったと伝えたかったのでしょうか?人生最後の写真くらい、いい顔をして残したいと思ったのでしょうか? 思い出の中では格好いい飛行士であってほしいと願ったのでしょうか?

 「俺たちが死ぬことで、いかにこの戦争がばかばかしいことだったかを証明するしかないんだ。こんなことは二度と繰り返してはいけない。あとは頼んだぞ」と訴えかけている笑顔にも見えます。

 さて、あれから78年、サッカーなどスポーツの試合で、戦術、戦略を駆使し、あの手この手を使って際どく勝利を手繰り寄せることよりも、華々しく正攻法で攻めて負ける方が「見事である」「潔い」などととする評が出ることがあります。泥臭く勝つよりも清く散ることが尊いのだと...。

 そんな評を見聞きするたびに、そのような「空気」が78年前の人類史上類を見ない愚策を産んだのではないかといやな気分になります。たとえスポーツであっても「華々しく散る」ことへの礼賛はもうやめてほしいと思うのです。カタールW杯で日本代表が「守り倒して」ドイツ、スペインを破ったことで多少、空気は変わったようにも思えますが...。

 写真の彼らに託されたことを、今、私たちはどれだけ実現しているでしょう? あの悲劇を繰り返さないために誓ったことを忘れずにいるでしょうか? 先日「いざとなったらやるよ」などと勇ましいことを、口だけは達者な老政治家が言っていました。

 サッカーの「戦い方」の評論から政治的世論まで、なんとなく漂う周囲の「空気」に取り込まれることで、知らず知らずのうちに自分が「主流派」の一人であることに安心する、という流れがあります。そのように「自分」と「周囲」の境界があいまいになるときが一番、危険です。

 こんな悲しい笑顔の写真は二度と残したくありません。空気に流されず、真理を見抜く目を持ち続けたいものです。