「戦後」から「戦前」になった

 W杯で大騒ぎしている傍らで、とんでもないことが進行していました。現在"世界第3位"の軍事力をさらに増強させましょうと。そして、その軍備の中で「敵基地攻撃」の武器もどんどん配備しましょうと。恐ろしいことです。

 殴り合いになりそうなときに「こっちはその気がないから、まあ落ち着いて話そうよ」では終わらない、という話です。とりあえずナイフをちらつかせて、「来たらやるからな」ということにしましょうと。しかもこれまではナイフレベルだったものを、拳銃とかライフルに変えよういう話。「相手が向かって来る前に、来る気配がしたら撃って確実に殺しちゃいましょう」という話。

 それで平和が訪れる? ホントですか? 仮想敵国とやらが「日本がナイフからライフルに持ち替えたので、怖いのでもう止めておこう」となるのですかね? 「なに、ライフルに替えただと!!! いい度胸しているじゃないか、よし、それならこっちはバズーカだ」となるのが普通じゃないですか? そのバカバカしい威勢の張り合いの果てに核の配備があるわけでしょう?

 しかも、どさくさに紛れて原発を推進する方向に舵を切るとのこと。えっ3.11忘れたのですか? 太平洋戦争は77年たってますけど、3.11はわずか11年前ですよ。未だに補償問題続いていて帰宅すらできない人がいるのに。しかも軍事増強で「敵基地攻撃」をするわけでしょ。相手だってバカではないので「やられる前にやる」のは常識。推進した原発にミサイル打ち込まれたらどうするんですかね。

 さて、こうした動きに対して「けしからん」と怒っているのは50代以上。30歳以下の多くが「イエス」と言っている。驚愕します。若者たち、いざとなったら人殺しの集団に招集されるのはあなたたちですよ、わかってますか? これ架空の話ではなく、今現在、ロシアでやっていることなんですよ。

 軍備拡張や原発推進に「イエス」と言っている若者たちは、多分、自分は安全な場所に隠れて、殺し合いは誰か別の人がやってくれるもの、と思っているのではないでしょうか。自分が殺し合いの当事者になるという想像力が働いているのでしょうか? 

 もかしたら、今の若者はさんざんゲームで「殺し合い」してまいすから、撃たれてもリセットすれば生き返ると思っているんでしょうか? まぁ身体があれば生き返る可能性もゼロではないでしょうけど、核が使われたら蒸発して湯気になってしまいますからね...さすがリセットはできないですよ。

 戦争とは自分や友の腕や脚が一瞬でもがれること、内臓が飛び出ること、身体がただの肉の破片や黒焦げの炭になること、そして湯気になって影しか残らないことだという想像力が働いているのでしょうか?

 1941年の太平洋戦争開戦の前もこんな空気だったのでしょうね。世界と周辺国の状況から軍拡やむなしと。そして若者たちは「いざとなったらオレもやるよ」と思っていたのでしょうね。そのような「勇ましい」勢いが結果として300万人余の命を奪いました。ウルグァイの人口と同じ数です。

 2発の原爆で52万人の命が奪われましたが、後遺症による死者は77年たった今でも増えています。沖縄では4人に一人がなくなり、歪んだ教育のためにに家族同士の殺し合いで乳幼児の命も奪われました。母が我が幼子を殺すという狂気の世界があったのです。

 南方の戦線では食料もなく、武器弾薬の支援もなく、病死、餓死の兵士がまるで廃棄物のように現地のジャングルに捨て置かれました。どこで死んだかもわからいず、遺骨さえ見つからないという兵士が数多くいます。みな、戦争さえなければ夢を抱いて生きていただろう将来ある若者たちでした。

 特攻という狂気の作戦もありました。飛行機や潜水艦ごと相手に体当たりして爆発するのです。出撃すれば100%爆死です。19歳、20歳といった幼さの残る顔立ちの若者たちが、次々に飛び立って戻りませんでした。彼らが残した手紙や絵画などを見ると、どれほど可能性ある未来を国家の暴挙が断ち切ったのかと愕然とします。

 だから「もうたくさんだ」となったはずです。憲法9条を制定し、平和国家を確立すると誓ったはずです。

 でも忘れるんですね。人間とはなんと愚かなのでしょう。この先、日本は世界有数の武力を誇示し「来るなら来いよ、いつでもやるぜ」と凄む国のあり方に変わります。

 これまで77年間、私たちは「戦後」という表現を使ってきました。もう戦うことはないという意識で使われていた言葉です。でも、これからは、未来の人たちに「戦前」と呼ばれる時代になるのでしょう。

 「あの時は、やむを得ないという思いだった」「まさか、ここまでの状況になるとは思わなかった」と、老人になった今の若者たちがいつの日か語るのでしょう。自分たちが「イエス」と言ったことはすっかり忘れて。