不安が大きくなった一年だったけれど....

 今年もいろいろありました。
 子供、若者、という将来を担う者たちとスポーツを通して触れ合う毎日で特に気になったのが、安倍政権のあまりに調子に乗りすぎた唯我独尊。この人は、子どもたちが大人になる将来、日本に何を残そうとしているのか、とても心配です。
 「戦争放棄」を謳った憲法9条を改正して、どんどん相手を攻撃できる国にしたくてしょうがない。改憲のハードルが高いと見るや、改正手続きの方を緩めてでも何とかしようとゴリ押しする。武器輸出禁止の原則を破って弾薬の供給をしてしまう。弾丸をもらった相手は「いや間に合っています」といっているのに「不足による緊急事態だ」と子供だましの詭弁をふるう。

 特定秘密法を暴力的強引さで強行採決して、「お上」に楯突く者を強権で黙らせようとする。そして決まってしまえば「説明が不足したかもしれないのでこれから丁寧に理解を求める」などとしらっと言ってのける。あのね。丁寧な説明は決める前にするものですよ。
 靖国参拝もそう。「尊い命を犠牲にした方々に対して...」などともっともらしいことを言っていますが、本当にそういう気があるなら、例えば自宅の庭に慰霊碑を建てて毎朝、拝むとか、遺族会に毎年ポケケットマネーで寄付をするとか、日頃からこつこつと人知れず戦没者の御霊に尊崇の念を示す行為をするべきです。
 言うまでもありませんが、安倍君にそんなつもりは毛頭無いわけです。もとより戦没者を心から慰霊する気持ちさえありません。彼の靖国参拝というのは、慰霊の気持ちから行っているのではなく、中国、韓国に対する政治的アピールとして、「オレはオマエらの批判など気にしてないぞ」という、いわば「威嚇」の一つとして行っているのです。ですから、戦没者にしてみれば、安倍君の政治カードの一つとして利用されていることになるわけで、実は極めて極めて失礼な行為なのです。
 そもそも「国のために命を犠牲に...」といいますが、そんな戦争を起こしたのは誰ですか。安倍君の先輩諸氏ではありませんか。市民の戦没者はみな、教育と情報操作で騙され、強引に死地に連れて行かれ、希望ある未来を絶たれたのです。だから「二度とそういう犠牲をつくってはいけない」という理念で新憲法ができた。それなのに安倍君は「こちらからガンガン攻撃できるように変えてしまえ」と言っている。そんな人間に「国ために尊い命を無くされた方々に尊崇の念を....」などと言われても、まったく説得力がないわけです。

 教育と情報操作といえば、「道徳」を教科として評価の対象にするという実にバカげた決定もなされました。心や態度が教科として「正解」と「不正解」にわかれることになるのです。「不正解」ならバツとして通知表の評価が下がるから、子供はただ一つの「正解」を覚えて身につけようとすることになります。「国を愛するべきですか」と問われて「それは人それぞれです」と言えばバツになる。だから皆、教科書が示すある一つの考え、態度を身につけるようになる。今年90歳になった私の父が受けた「修身」の世界に逆もどりです。「国のために死んでこそ男子たるもの」「はい、正解」となるわけです。
 もう一つ心配なことは原発。福島の原発事故は3年近くたっても対症療法に追われるのみで、いまだ汚染水はたまる一方。除線で削られた土もたまる一方で、放射能を浴びた水も土もどこに持っていけばいいのかわからない。事故が起きていない原発の核廃棄物もどう処理したらいいかわからない。地中に埋めておいて「あとは将来、たのみます」という付け焼き刃。なのに、原発はやめようとせず、輸出まで決めている。唯一の被爆国として、放射能の恐ろしさは世界で一番、知っているはずなのに...。
 地震津波には痛い思いをしたから、次の基準では地震津波も大丈夫です....といっても例えば隕石が落下したらどうするのさ、ロシアみたいに。命知らずの自爆テロがあったらどうするのさ。自家用機やヘリで突撃しようとおもえばできるでしょう。そんな狂気の人物が絶対に現れないという保証はないわけです。事故は大抵「想定外」で起きるのですよ。
 やれやれ、消費税も8%にあがるとのことです。それでも国家予算の多くは国債による借金。景気いいようなムードは見せていますが、やっていることは結局、危うい自転車操業ということです。何ら「さすが」という手だてはない。
 かわいい子どもたちの笑顔を見ていると、この子たちがやがて大人になった時、さらには、彼らの自子供がまたサッカーをやるようになった時に、今と同じ平和な世の中であればいいと思います。自由にものが言える世の中であればいいと思います。地球環境を大切にして、大地の恵みを美味しく食する世の中であればいいと思います。
 来年は、そういう明るい未来に進む第一歩になることを願います。