平和、自由、を掲げてはいるけれど...

 若い頃、とあるスポーツ組織に加入したことがありました。「自由」とか「新」とかの言葉を掲げ、既成の悪しき概念から脱却し、新しい理想のスポーツ組織づくりを目指すという理念を掲げていました。反骨精神に満ちていた若い私にとって、とても良い出会いだと思っていました。 

 ところが、いざ加入してみると、実態は真逆でした。「新しい」ということが様々な「縛り」を課します。一番驚いたのはサッカー審判員の資格はサッカー協会認定のものは認めない、という規定でした。その組織が独自に認定する審判資格を改めて取り直せというのです。世界共通、FIFA(国際サッカー連盟)から認可された日本協会の資格がなぜ無効なのか? やっているのは同じサッカーでしょう?と食い下がりましたが、聞く耳を持ってもらえません。

 「意見があれば会議の席で発言を」と言われたので、そのようにしました。すると、「皆がそう思っているけど、決まりだから従っている」「皆、時間をかけて資格を取り直しているのだ。一人だけ勝手なことを言うな」といった発言の集中砲火を浴びました。私を攻撃した全ての発言の趣旨が「一人だけ言いたいことを言うな。決まりなんだから従え」でした。

 はぁこれが「新」とか「自由」とかを掲げ「古い体質からの脱却」を目指している組織の実体なのか...これでは古い組織よりもずっと保守的で全体主義的はないか...と呆れ、即刻、脱退しました。

 かつて過激派と呼ばれ権力側との闘争に明け暮れていたた学生の組織も、元々は人民の解放とか、社会的搾取の解消とか「市井の人々の幸福の実現」を理念としていました。しかし、いつしか組織は本来の目的を忘れ、理念を曲解して主義主張に合わない言動、行動をする構成員をリンチ、殺害するという暴走を始めました。何が目的で何が手段なのかわからなくなり、迷走してしまったのです。

 さて、先日、何かと話題になっている宗教団体のスポークスマンが、会見で政権政党との関係を問われて「共産主義コミュニズムとの対決という点ではずっと思想的に一致していた」という趣旨のコメントをしていました。

 現在、共産主義を掲げるいくつかの国では独裁者が圧政を行い、人々はその独裁者を崇拝するよう強要され、国民は一つの思想に染められ、行動や発言の自由は制限されています。そうした有様を「良くないこと」とするのは誰にも「解りやすい」主張です。

 では「平和」を掲げているその団体の実態はどうなのでしょうか。ただ一人の代表者を個人崇拝し、ただ一つの考えを強要し、同志獲得のノルマを課し、私有財産の供出を強要し、果ては結婚の自由まで奪う。構成員の全てが同じ方向を向き、集団的思想団体に組み込まれていく。これこそ、その団体が嫌っている「悪しき共産主義」ではないでしょうか?

 かつて私が加わったことのあるスポーツ組織も、学生過激派も、その宗教団体も、似たような「匂い」を感じます。平和とか、自由とか、平等とか、新しい世界、などという理念を掲げ理想に向かって邁進しているようでも、結局いつからか、ある一つの方向に人々の考えがまとまっていくことを強いるようになり、やがてそれが自由とか平等に反する「暴走」になっていることに気づかなくなるのです。 

 「そういうものだから」とか「皆がそうしているから」という状況に流されず、自分と自分を取り巻く状況を冷静に客観的に見直すこのできる力を養っておくことは大切ですね。