もはやオリンピックではない

 オリンピックの起源である運動競技会は、紀元前800年ころから古代ギリシャの各都市で神々に捧げる祭事として開かれていました。オリンピアという都市で行われていたものが最も盛大だったことから、その後オリンピックという名前が使われるようになります。ヨーロッパをローマが支配する時代になりキリスト教が取り入れられると、ギリシャ神への信仰は異教として排除され、祭事であった運動競技会も衰退します。

 時は移り、19世紀にイギリスを訪れたフランス人クーベルタンは、ただ純粋にスポーツを楽しみ、その過程で忍耐、協調、自己犠牲といった理念を育もうとするジェントルマンたちの姿に感動します。この崇高な理念を何かの形で発展させることはできないか、そう考えたクーベルタンは、衰退していた古代ギリシャの競技会を復活させ、純粋に競技に没頭しその過程で高潔な精神を養うという理念を盛り込もうとします。それが近代オリンピックの始まりです。

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 もとは神への献納、次には高潔な精神の追求がオリンピックの目的でした。しかし高潔な精神を追求するはずだった競技会はやがて勝利、記録追究のためのイベントになり、勝者への注目は資本主義的商品価値に置き換えられ、選手は利潤追求に寄与する広告媒体として値踏みされるようになります。本来なら選手を歓迎するはずの開会式は、豪華な演出を誇示するショーとして法外なチケット代金が設定されるようになりました。

 今やオリンピックは放映権料と協賛スポンサー料を合わせて数千億円を動かすビッグビジネスになりました。現在のオリンピックは、神への奉納でもなく、崇高な精神の追究でもなく、ただその巨額な資金を動かすために「開くこと」そのものが目的となりました。

 人との接触が最も危険であるウイルス感染症パンデミックとなる中、世界中(インドのように恐ろしい状況の国も含めて)から東京に一万数千人の関係者を集めるといいます。大阪では重症者が入院できずに亡くなるほど医療体制がひっ迫しているというのに大会のために500人の看護師を派遣しろといいます。医療従事者のワクチン接種さえ進んでいないのに、選手には優先的にワクチンを接種させるといいます。緊急事態宣言は効果なく延長され、外に出るな、行動を抑制しろと言われている人々が、そんな状況を納得して受け入れるでしょうか?

 感染状況を鑑み、聖火ランナーを公道で走らせることができないので、同じ場所をグルグル回ってリレーするという珍現象がありました。もともと聖火リレーベルリンオリンピックの時にナチスドイツがヨーロッパ大陸支配の象徴としてはじめたことで、オリンピックの理念とは関係のないことだったのです。しかしいつの間にか「恒例」となってしまった。恒例となると「やること」そのものが目的になる。だから、同じ場所を回るなどというまったく意味のない滑稽なアレンジでも、とにかくやる。

 天国のクーベルタンはずいぶん前からすっかり様変わりしてしまったオリンピックを嘆いているはずです。しかし、今回の東京大会にまつわるさまざまな様子を見て、彼の嘆きは絶望にかわってしまったのではないでしょうか。お金を回すことが第一で、そのためなら死に至る伝染病のリスクさえ犯そうとする。これはもはやオリンピックではない、と。