引き出されて断罪される過去の言葉、表現

 東京五輪の開会式イベントを統括していた人物が、LINEの文面の中で不適切な表現をしていたことが明らかになり辞任しました。

 辞任は当然です。ただ、そのLINEのやりとりが時間的にかなり前のことで、しかも限られたスタッフ間でのみ交わされたものであり、それが今になって暴露されるという方法に複雑な気持ちを抱きます。

 開会式の演出に関しては、当初リーダー的な立場にあった方が辞任して、最初に描いていた方向性とは違う形に進むことになり、かの人物が新たなリーダーとなりました。

 外野は憶測することしかできませんが、こうした組織再編が全ての当事者たちの納得のもとで穏便に行われていたとは思えません。最初のリーダーが辞任するような組織の在り方や、新たにリーダーに座った人物の新しいやり方に不満を持つ関係者がいるであろうことは想像に難くありません。

 開会式に限らず、組織のあるところに不満ありです。新たなリーダーのやり方に不信感があるなら、本来は、それを正す場できちんと正していけばいい。とはいえ、そんな正論がまかり通らないのが世の常です。

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 「この男をリーダーから引きづり下ろしたい」と悶々とするものの、正式な場ではとてもそんなことは言い出せない、というスタッフがいたのでしょう。そんな時、森前組織委員長の蔑視発言があった。五輪関係者が女性蔑視の発言はあり得ない、という機運が一気に高まった。「今だ」と思ったのでしょうね。「この男がある日ある時、こんな蔑視表現をしていた」と過去の失言を暴露した。狙い通り、辞任に追い込むことができた。

 誤解のないようにお断りしておきますが、辞任した人物を擁護する気持ちはひとかけらもありません。ただ、それが、任務上の力量などを正された末のことでなく、また公式な場で失言したからでもなく、限定された人物間の過去のやりとりにあった言葉を今になって引き出されてのことである、という部分にひっかかりを感じるのです。

 リーダーとして適正でないなら、本来なら正規の方法で「あなたは不適格だ」と正していけばいい。しかし、それはできない。だから、その人物の人生の中に残されたわずかな「ほつれ」「ほころび」を掘り出し、探し出して、「このような言葉を使うふとどきな人物だ」と暴露することで追放しようとする。

 こういう方法がこの先、多用されていくのだろうと思うと、いやな気分になります。仲間うちで気心しれているから、多少は砕けた表現でも真意はくみ取ってくれるだろうと思っていても、後で暴露されて「あなた、あの時ここでこんな表現していましたよね」と追究されるかもしれない。

 かくいう私も、このブログの表現を取り上げられ、「ここでこんなことを書いている人物だ」と、悪評を広めるための材料にされているようです。それは伝聞、さらに伝聞となって、永井はこんな酷い男らしいという評判になったとのことです(これも伝聞で、直接、抗議されたわけではない・笑)。

 日本では表現の自由が保障されていますから、書いた内容を曲解されようが、一部分のみ都合のよう良いに切り取られて使われようが、発信したら最後、その手の攻撃を受けることは覚悟しなければなりません。それでも、自分の言葉や文字が意に反した形で伝わるのは怖いですね。

 そもそも、普段から品行方正な言葉使いや文章表現をしていればいいではないか、美しい言葉と良識的な表現に突っ込みどころなどないだろう、と言われればその通りです(笑)。