追悼、岡野俊一郎さん

 2日、岡野俊一郎さんがご逝去されました。
 私の時代は高校受験の時も大学受験の時も、願書には必ず「尊敬する人物」を記入する欄がありましたが、その全てに私は岡野さんの名前を書いていました。それ以外の人物を書いたことはありません。
 岡野さんがどれだけ素晴らしい実績をお持ちの方かは、すでに報道で細かく紹介されているので、改めて詳しくは触れません。文武両道を極めたスポーツマンの鏡のような方で、それだけでなく、英語、ドイツ語を駆使して国際感覚まで一流の方でした。
 まだ私が20代の頃、人づてに何とかお会いする機会を作っていただき、食事の席にご一緒させていただきました。すでにサッカー協会の重鎮であったにもかかわらず、どこの馬の骨ともわからない若造と気さくに酒席をともにしてくださり、伝説の番組「ダイヤモンドサッカー」の名解説そのままに、サッカーのプレーから国際文化の話まで、多岐にわたるお話をしてくださいました。若き日の私の、夢のような時間でした。後日、岡野さんとの酒席を仲介して下さった方から「君のこと『気持ちのいい若者だね』と言っていたよ」と伝えられ、喜んだことを思い出します。
 私は若い頃、プロのサッカーのコーチとして生きていくことを考えていましたが、ある時、それを断念してジャーナリスト活動に転身しました。「いつか岡野さんのような指導者になりたいと思っていたのですが...」と岡野さんに報告の手紙を書くと「指導者として勉強したことは絶対に無駄になりません。今までの経験を活かし、新しい世界で頑張って下さい」というお返事をくれました。こんな私にわざわざ自筆のお返事を...と、いたく感激しました。
 その後「取材」という形で何度かお話を聞く機会がありました。しかし、それらは取材というよりも、私にとってはもう「講義」そのものでした。毎回、毎回が「勉強会」のようなものでした。一つの事象を語るのに、歴史、経済、宗教、時には生物学などの知見を絡めながら、豊かな表現力を駆使して下さいました。言うまでもなく、サッカーのプレーに関する指摘は他の誰が発するそれよりも鋭く的確でした。
 岡野さんは東京大学に7年在学されています。報道ではサッカーに深く関わりすぎたため、などと書かれています。でも、私にはこう語ってくれました。「最初はね、医学部に進んでんですよ。でもね、学ぶうちに『何か自分の求めていることと違うな、と。それで改めて心理を学び直したんですよ」。東大の医学部に合格した後、また文学部に合格するという頭脳。しかも当時プレーではユニバーシアード日本代表。こういう人を天才というんだ、と改めて驚いたものです。
 方々で公言していることですが、私のサッカー番組の解説の方法は全て岡野さんのマネです。もちろんマネしてるだけで、中身は到底、岡野さんの領域には近づけてはいません。それでも、この先、下手なマネだけは継続していき、岡野さんが確立した、技術、戦術のみならず地理、宗教、社会等、サッカーを形成する「文化」を伝えていくというスタイルを死守していきたいと思います。
 昨年ヨハン・クライフさんが旅立ち、そして今年は岡野俊一郎さんが旅立ちました。私が国内外で憧れた人物がもうこの世にはいません。宿命ですが、本当に寂しく、悲しいです。