人事とは低次元の感情的行為なのですね

 先日、面白い人事がありましたね。プロ野球・巨人の高橋由伸監督就任と、自民党の船田元・憲法改正推進本部長解任。
 コーチ兼任のーズンを経ているとはいえ、本人もファンもまだまだ現役感十分の高橋選手を無理矢理、監督に据えたのは「原辰徳退任の後を埋めるにはスター性のある人物しかない」というあの困ったお爺さんの「鶴の一声」ではないか、というのがもっぱらの憶測(笑)。脇のコーチ陣さえしっかり固めておけば野球は何とかなる。他球団からカネで主力を引っ張ってきて並べりゃいい。だから「TVやスポーツ紙の一面で絵になるヤツじゃなきゃダメだ」なんてダミ声で言ったんではないかと(笑)。 

一方、船田議員の更迭は、彼が招いた憲法学者が国会で「安保関連法案は違憲」と言ってしまったことから。「よくもこんな学者を呼んでくれたな」「あれがきっかけに法案反対の声が高まったしまったではないか」という報復人事。本人だって憲法を改正して戦争したい立場なのですから、あの学者が「違憲です」なんて発言するとは夢にも思っていなかったでしょうに(笑)。しかし今となっては、90%以上の学者が「違憲」と断じている状況で「合憲」と横車を押す学者を捜し出すこと自体が大変でしょう...。
 いずれにせよ、世の人事とは、その裁量を得た人間の感情的行為であることが改めて確認されましたね。このケースのみならず、一般の会社でも組織でも仕事のオファーでも、ほとんどあらゆる人事、指名、といったものは合理性、論理性に欠けたもの、つまり適材適所という概念とはまったく関係ないところで動くものです。
 世の中は、なんでこんなヤツがこのポストに、どうしてこの程度の力の人間がこの仕事を...?ということだらけですよね。TVの出演者枠、映画の配役、アニメ映画の吹き替えもそう。~賞とかベスト~なんていう選出もそう。地上波TVのサッカー解説者なんて、一番「え~っ、コイツかよ??」って思われている人事じゃないですか(笑)。
 人事のほとんどが実力とは別の基準で決まる、ということは誰でも承知しています。だから皆、いわゆる「人間関係」を築くことに死にものぐるいになる。立ち回りのうまいヤツが仕事、ポストを得ていく。やがてそういう輩が指名できる立場になると、ここぞとばかりに「オレ流」を発揮して人を動かして悦にいる。その繰り返しです。
 指名を受ける側は指名者の「オレ流」など、浅薄な思い込みにすぎないことを完全に見透かしているのですが、仕事、ポストがほしいから、やむなく平身低頭して同調する。こうして、何ら創造性のない毎日が繰り返されていくのです。一番惨めなのは「オレ流」の人事で新境地を開いたと勘違いしている本人。「やってやったぞ」と自己満足しているのでしょうが、周囲は皆「アイツ何考えてんだ。あの程度の器なのか」と心の中でバカにしているのです。