失敗しない???

 先日「最近の学校事情」を紹介するTV番組を見て驚きました。
 体育の授業でリレーをするとき、バトンがリング状!!!!になっているのです。そう、あの筒状のバトンではなく、子どもたちは、まあるいリングを持って走るのです!!!なんで~???
「落とさないように」が理由だとか。うへぇ~何だそれ。バトンパスはリレーの重要な要素でしょ。日本の400mリレーチームはそのバトンパスの緻密さゆえに体格、体力にまさる外国勢にいい勝負を挑んでいるんじゃないですか。
 そもそも落として失敗することも大切な経験でしょう。落とすから、次から落とさないようにする工夫をする。それが教育じゃにないですか。そのためにリレーという形を取って「学ぶ」のでしょう?それを最初から大人が「落とさない」ように細工したら、そもそもリレーという形式でかけっこをする教育的意味が半減してしまうと思うのですが...。
もう一つ驚いたのが、ソフト跳び箱。ホワホワの素材で作られているから、跳ぶのを失敗してお尻がぶつかっても痛くないのだとか。痛くないから、怖がらずにみんなが跳べるのだとか。はぁそうですか。では、痛くないから「失敗しても何とも思わない」「いつまでも上手に跳ぼうとしない」子がでてくることはどう解決するのですか?
 失敗させない、痛くさせない...。転ばぬ先の杖。導入では必用な要素かもしれません。しかしそれにしても...。
 でも考えてみれば、そもそもなぜ跳び箱を跳ばす必用があるのか、よくわかりませんよね。まぁ運動科学的に言うなら、手足と全身の協調性を養うということなのでしょうけど、それなら別に跳び箱を跳ばなくてもいろいろな手段があると思います。体操選手になる子どもなど滅多にいないんだから。鉄棒もそう。逆上がりができなくても何にも困らない。別の形で体の機能を刺激すればいい。
 リングバトンを使ったリレーも、ソフト跳び箱も、何事も「できる・できない」という基準で見ていくことの弊害が生んだ奇形ではないでしょうか。「できる」がOKで「できない」がNGという視点から発想している。しかし子どもは競技選手ではないので、本来パフォーマンスの巧拙は関係ないはずです。そのプロセスで「何を学ぶか」が大事。そう考えれば、落としても跳べなくても大きな問題ではないのです。
 でも「できる・できない」で近視眼的に見てしまうのですね、大人は。どんな能力も伸びる「旬」があるものです。でもそれを無視して幼い頃から何でも「できる」子にしようと、どんどん詰め込む。そんな大人の歪んだ願望の象徴ですかね、リングバトン、ソフト跳び箱は。