エンブレム取り下げといじめ

 盗作疑惑の五輪エンブレムが白紙撤回されました。公式には著作権の問題はなく、盗作ではないとされたのですが、作者本人が誹謗中傷に耐えきれず取り下げたということです。
 確かに作者は他の作品で安易な流用をしたり無断で盗作まがいのことをしていたことが明らかになり、デザイナーとしての信用を失いました。その人物がつくった作品を、批判を浴びながら世界の祭典で使い続けることは難しいでしょう。
 それにしても....。驚いたのは、作者のマイナス面を探して暴いてやろうとする人々の、そら恐ろしいほどのエネルギーの強さ。それこそ作者を「貶める」ことに関して全知全能の限りを尽くしているかのよう。日本中に即席私立探偵が生まれて、根掘り葉掘りの「調査」が続き、ここにも、あそこにも、と摘発の証拠集めに熱中しました。作者の電話番号など、個人情報を暴露した輩もいるとか。「他にやることないのかよ」という感じ(笑)。
 ところで、子どもたちの自殺が9月1日に多いとのこと。学校が始まるとまたいじめられる...という絶望感が大きな原因のようです。今回のエンブレム取り下げ騒動で明らかになった、一人を貶めるための恐ろしいほどの揚げ足取りのエネルギーの強さを思うと、子どもの世界でも一人の弱者を貶めてやろうとする邪悪な意志の圧力は相当なものだろうと想像できます。子ども一人が受け止めて耐えることは難しいでしょう。
 何かを見下して、困らせて、優越感を持つ。
 その心理の根底には、自分の中の矮小さ、卑屈さ、惨めさ、などから発生する劣等感があります。自分が小さくてつまらない人間だということを自覚しているからここそ、何かマイナス要素がある他のものを見つけて貶め、優越感を持たねばやっていけないのです。
 対症療法的にいじめ防止策を講じることは必用ですが、もっと大切なことは、人をいじめなければやっていけないような、卑屈で惨めな考え方を形成しないような教育、指導を行うことでしょう。点数、成績で人格まで区別するような受験教育、他者と比べて足らざる所を叱咤する躾、勝てるなら何でもするというスポーツ指導。そうした環境から「自分の下」を見つけて安心するという思考回路がつくられていくのです。
 前回、夏にセレクションの締め切りをするサッカークラブのことを書きました。私にいわせれば「苗木狩り」をするようなチームは育成機関としては失格です。しかし、指導哲学や指導内容がどうか、という最も大切なことを見極めようとせず、ブランド名や成績だけで「苗木狩り」に応募する親子がいることも悲しい現実です。結局、そうした現実が勝利至上主義を容認してしまうわけです。
 その結果、セレクションに通った通らない、チームが強い弱い、勝った負けた、などで人格までランクづけするような考え方が醸成され、少しでも「下」の要素がみつかれば、大小さまざまないじめで優越感を持つ、という悲しい心理の連鎖がつくられていくのです。