サイボーグ、レブリカントの人生?

 サッカークラブの小学生が高学年になると必ず「お受験」のために退部というケースが出てきます。
「実はそろそろウチも...」と親から相談をもちかけられて「意外だ」と思うことは滅多にありません。そういう子はもとより十分な前兆があります。
 まず、低学年のころから、やたらと数々の習い事をさせられています。楽器だ、英語だ、塾だなんだかんだと、まるでロボットにオプション装置を取り付けるように、ありとあらゆる能力を身につけよとばかりに駆り立てられています。自由に子どもらしく遊ぶ時間がまったくない。毎日、必ず何かを習っています。だから世の中の物事は全て「習う」ものだと思って育ちます。

 その結果、てとても物わかりが良く、知識が豊富で、理解力が高いのですが、創意工夫の力は極めて弱い、と言う特徴があります。クリエイティビティに著しく欠けます。決められたことを忠実にこなすことに関しては上出来だが、何もないところからに何かを生み出す力がほとんどない。「習っていない」ことは何もできない。
 親の完璧主義が目に余るのも特徴です。試合のプレーの一つひとつにケチがつく。こうすればいい、ああすべきだと、欠点の修正に余念がない。だから子どもが自分で感じ、悩むゆとりなど微塵もない。全てが合理主義の理論のもと推し進められるから、損得や趨勢を見ることには長けるが、心の温かさが育たない。非常に計算高い考え方を身につける。
 そんな様子が見て取れると「ああ、この子はいつかは来るな」と感じるわけです。
 そういう予感がしはじめると、面白いもので子どものプレー中の態度も変わってきます。まず、著しく集中力が落ちてきます。ぼんやりしている時間が増える。指示を聞き逃す、約束事を忘れる、といった現象が現れてきます。プレーに集中できていないので、ボールに触れる前に相手に簡単に奪われてしまうことが多くなります。そりゃそうでしょう。毎日、学校で勉強する他に習い事で明け暮れていれば、気持ちは「もぬけのから」になってしまうでしょう。
 もう一つの特徴は、異常にミスを恐れるようになることです。自分が失敗してはいけない、という強迫観念が強くなる。それはテスト、テストに明け暮れて、正解を出さなきゃダメ、という訓練を毎日のようにしていれば、「間違い」がとても恐ろしい事になるでしよう。だからサッカーでも失敗する可能性がある大胆なプレーを避け手堅くパスすることを選ぶようになる。
 こうして、子ども自身に集中力理欠如、ミスの回避、という現象があらわれるようになると、私も「ああ、そろそろだな...」と思うわけです。
 長年、指導者をやっていますから、こういうケースは腐るほど見てきています。そして、その多くに共通するイヤなことがあります。そうやってクラブを辞めて受験体制に突入した子が、その後、学校や友人関係で良からぬ行動をするようになった、という報告を聞くことが多いのです。
 大抵はいじめです。「えっ、あの子が」と思うような子が、イジメをする、あるいは加担する側になることが少なくないのです。幼くして点数で仲間を蹴落とし合う競争に組み込まれてしまえば、まともな心の持ち主なら、どこかに「はけ口」が欲しくなることも頷けます。
 こうした子たちは目的の学校に「入る」ことがゴールですから、入学の後そこで「何をする」ということに対してはまったくガス欠状態になってしまいます。そこで終わりです。最も多感な時期に何もかも「習って」いたので、自分の魂を揺さぶられ、損得抜きで探求したいと思うことを見つけた経験がありません。だからゴールインした後は、ガイドブックに書かれている、あるいはマニュアルに書かれている既製の「幸せ」を「そんなものらしい...」となぞる人生になるわけです。
 これってある意味、サイボーグやレブリカントと同じ世界ではないかと...私は思うわけです。それでも映画のように「自分をつくっているものは何だ」と自問するようになれば、まだましかとは思いますが....。