ガクリョクって何?

 親の年収が高く、学校外の学習時間が長い子どもほど学力が高いという調査結果が出ました。
 当然のことです、子どもは何でも「やればやるほど」できるようになるものです。吸収力の高い時期ですから、カネと時間をつぎ込めば、それ相応のものが身につきます。特に「記憶力」に関するものは単純に反復労力に比例して伸びるもの。今の「学力」はほとんど記憶力を試すものですから、まぁ「カネかけた者勝ち」になるのは当たり前。
 スポーツも同じ。練習回数を増やして、試合を毎週こなして、遠征も合宿もキッチリやって「試合の進め方のノウハウ」を徹底して刷り込めば、ジュニア期ならそれなりに強くはなる。楽器の演奏も語学もそう。回数を増やして詰め込めば詰め込むほどできるようになるものです。
 しかし、高校で心身両面でバーンアウトしてしまうスポーツ、応接間に居座るだけになってしまうピアノ、海外で買い物くらいはできても国際問題が議論できない英語に、どんな意味があるのでしょう。子どもの頃バイオリンをやっていたという人に「メンデルスゾーンの曲想について」と話しかけたら「そういうの勘弁してください」と恥ずかしそうにしていました。音楽の訓練をされていても、音楽で人生が豊かになっているわけではないのだと思いました。 
 私たちの世代は、いわゆる「詰め込み教育」を受けました。中学生からは「全ての勉強は受験突破のため」のような雰囲気がありました。しかし修学旅行で京都、奈良に行っても、何も感じることはできませんでした。仏像の渡来年、寺社の設立年ばかり覚えていたからです。歴史や文化について深い興味持ったのはその後、随分とたってからです。改めて勉強し直すと、単純に年号や事象を記憶していた学習がいかに空虚だったか気付かされます。
 「ゆとり教育」が間違っていたといわれます。だから再び「詰め込み」に戻せと。ナンセンスな話だと思います。私は「ゆとり教育」の効果がでていないのは「ゆとり」という概念の解釈が間違っていたためと思っています。「ゆとり」とは楽してサボってもいい、限界までやらなくてもほどほどでいい、ということではありません。有無を言わせず機械的に詰め込むのではなく、自分で試行錯誤する猶予を与えるということです。
 しかし、その方針を決めた役人も、その命を受けて教える教員も、みんな揃って「詰め込み」で鍛えられて大人になったものだから、どのように「ゆとり」を解釈したらいいのかわからない。だから時間だけ減らして勉強しないといことが「ゆとり」だと勘違いする。これまた「詰め込み」で育った親は「さぁ大変、これでは学力低下する」とばかりに「詰め込み」の権化のような塾に大枚はたいて通わせる。そして、結局、自分がそうだったように、徹底暗記、徹底反復による勉強で「学力」があがったと喜ぶ。
 結局、いつまでたっても反復して「覚える」学力しか身につかないから、マニュアル通りに動き、決められたことを正確にこなすことだけが取り柄の人材しか育たないのです。政治でも、スポーツでも、何でも日本人は事に当たって当事者の成熟度の低さ、「つたなさ」が露わになります。そりゃそうでしょうよ。知識として何をどれだけ覚えているかなんて、実社会ではほとんど役に立ちませんから。
 まぁ、そんなことは毛頭考えず、とりあえず安定したカイシャに入ればそれが人生のゴール、と考えているなら、むしろ優秀なマニュアル君を目指すのもいいかもしれませんが...。