それでも試合に出すべきか?

 指導するサッカークラブのモットーは「補欠なし」です。巧拙に関わりなく試合に出場するチャンスを与えています。そのことで日本サッカー協会のグラスルーツ部門から認定を受けてもいます。

 技術、体力でつたない部分がある子でも公式戦を体験できる。そのことでチームの目前の勝負の分は確実に悪くなるが、2年、3年たつうちに、そういう子が逞しく育ち、かつては足元にも及ばなかった能力の高い子たちとも対等に戦えるようになる。他のチームなら確実に「見捨てられていた」であろう子が、その子なりにベストと思える成長を明確に示してくれる。そうした実例をいくつも見てきたので、このポリシーは長らく堅持してきました。

 このポリシーには大前提があります。周囲と比べて相対的に劣る部分があるとしても、その子がサッカーが大好きで、上手にになりたいという意思があり、懸命に努力している、という姿勢があることです。その姿勢が報いられる機会を何とか用意してあげたい、ということが出発点になっています。
 

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 ところが、どう考えても本人にサッカーに対する情熱はなく、技術の上達に向けて努力している姿勢はまったく見えず、練習も皆勤ではなく、他の習い事を優先させてサッカーを休んだりするという子がいます。そういう子の親は、普段の練習は平気で休ませ、当たり前のように他の習い事を優先させているのに、公式戦だけは休まず出席させます(笑)「誰でもみんな出してくれるんですよね」とあたかも権利の主張をするごとく。

 そういう子にも果たして公式戦の出場機会を与えるべきかどうか、コーチ陣で議論が繰り返されています。サッカーが大好きで上達への意欲が強く、皆勤で努力を重ねている子は当然、フル出場して力試しをしたい。しかしクラブのポリシーを貫くためには、そういう子を敢えて退かせてでも、他の習い事を優先させているようなサッカーにあまり情熱を持っていない子を交代出場させねばならない。果たしてこれはスポーツとして健全なことなのかどうか?

 高学年になるとプレーは子どもなりに高度になり、初歩的な戦術的解釈も必要になり、試合ではチーム内でその共通理解も求められてきます。「この学年ならできて当たり前だよね」ということが増えてきます。それが大前提でチームプレーが進んでいきます。しかし、そういう子がいると、その子一人の無気力プレーが全てを台無しにしてしまう、ということになってきます。 

 それでも、ずっと皆勤でみんなと一緒に苦楽をともにしている仲間であるなら、子どもたちも技量の巧拙をどうこう言うことはないでしょう。しかし、もともとレベルが追いついていないのに、さしたる努力もせず、向上への情熱が見えず、他の習い事を優先させるような姿勢で参加している子が公式戦でチームプレーを台無しなするような初歩的なミスを繰り返すと、さすがに子どもたちも寛容ではいられなくなります。紅白戦の時に「あの子はちゃんとやってくれないから一緒のチームになるのはいやだ」と訴えてきます。

 私たち指導者にも大きな疑問があります。果たして本人はそれでサッカーが面白いのだろうか?という疑問です。もともと技量が劣るのに他の習い事と掛け持ちをしながらの参加なので、チームメイトとの差は時間とともに開く一方。そのため、プレーが高度化するにつれて明らかに本人が原因になるミスが増え、チームメイトの信頼を完全に失い、一緒にプレーすることを疎まれます。自身のプレーも当然ミスばかりですから、試合に参加することを楽しんでいるとは到底思えない。それで何が楽しいのだろうか?と思うわけです。

 あの習い事、この習い事...親が指示することにただひたすら従って右往左往する毎日を送っていると「自分の意思」「意欲」など、とうの昔に衰退してしまい、今や痕跡さえも残さない状態になっているのでしょう。ただ親の指示したことに機械的に参加している毎日なのでしょう。そんな子に「本当にサッカーやる気あるの?」と問いかけたとしても、ポカンとされるだけでしょう。

 まずサッカー大好きという気持ちありきの子どもたちと、その気持ちを何とか昇華させてあげたいというコーチたちにとってまったく理解不能な次元にいる子を、果たしてこれまで通りに試合に出すべきかどうか?クラブのポリシーに関わる決断が迫られています。