勝利至上主義の果てに

 先日、とある少年サッカーチームでコーチをしている人と話す機会がありました。彼は今、チーム内で針のむしろ状態だと嘆いていました。ある大会で、自分の受け持ちの子どもたち全員を試合に出場させたために、結果として大敗したのだといいます。
 「子供たちは、特に他の指導者なら出場機会がなかったであろう子どもは、とても良い経験をしたではないですか」と言うと「そう信じてやったことなのですが...チームの方針と真逆のことだと散々、叩かれましてね...」と苦い顔をします。そのチームは勝利至上主義で、まず「勝つこと」ありきなのだと。それなのに、力が劣る子まで出場させて負けるとは何事か、と批判されているのだそうです。
 私は言いました。「でもね、子供たちは皆、サッカーを教えて下さい、サッカーを上手くして下さい、という気持ちをもってあなたのチームにやってきたわけでしょ。子供たち皆、同じ志を持ち、同じ時間を費やしてあなたの指導に全面的に身を委ねている。ならば、それを受けたあなたは、一人ひとり、その子なりの成長を促すために、なるべく同じ経験をさせることが大切でしょう。その仕事を遂行しただけの話ではないですか。少年期の指導者としてはしごくまっとうな事をしていると思いますよ」
 「そうですよね。そうですよね。永井さんに理解してもらって良かった。でも、だめなんだよな...ウチのチームでは。本来のこととは違うことをした、結果の出せないダメな指導者みたいにいわれちゃう...」
 少年期の一時期に、サッカーを教えてください、と全てを委ねてきた子どもに対して、自チームの戦力になるいか否かで勝手に選別をし、等しく経験すべきことをあからさまに差別するなんて間違っています。ましてや、勝てば「結果を残した」と上機嫌になり、負ければ「今年はダメだった」とまるて子供たちの能力が劣ることが悪いのだと言わんばかりの負け惜しみを言う。これ、全て低級な指導者のエゴです。
 少年期の指導者には未だに、子どもの心身両面の育成よりも、自分が監督として勝ちたい、自分がいい気持ちになりたい、という身勝手なエゴで動いている輩が多い。子どものかけがえのない人生の一時期を、自分の虚栄心の道具に使っている。指導とか育成とか、口ではそれらしいことを言ってはいるものの、内容は「オレが勝利監督になるための子どもの調教」というケースばかり。
 そんな指導が大手を振っているから、本来なら夢と希望に満ちた3年生、4年生の段階で、「もう先がない、希望がない」と諦める子どもがでてくる。人生90年時代に、たかだか10歳になる前に、好きなことが上手くなる夢を断念させられる。これはゆゆしき問題です。自分の子どものチームがそういう体質だと知ったら、即刻、辞めた方がいいです。
 このようにチームの体質が「いかがなものか」というものであっても、運動能力が高い子は「戦力」として重用されますから、居心地がいいかもしれません。しかし、たまたま運動能力が高くて生き残った子どもたちにも悲劇が待っています。勝利至上主義の環境では「勝つために」その指導者の思い描くプレーを徹底させられて育ちますから、一本調子で決められたことをひたすら頑張り抜くことしかできなくなるのです。
 そういう子は、中学生になってスピート、強さ、角度、タイミング、状況などに応じて微細な調整が必要なプレーが求められても、まったく応用が効かない。そもそも指導者の言うとおりに忠実に動こうとすることは訓練されているものの、自ら考えたり判断したりしながらプレーする習慣がついていない、つまり、ずっと「調教」しかされていないことが露呈するわけです。
 クラプ内に中学生の部を立ち上げてはや十数年。色々なチーム出身者を受け入れ続ける中で、このように勝利至上主義のチームの「コマ」にされていたとおぼしき子供たちの長じた後を見せられる中、つくづく少年期の指導の在り方を考えさせられる毎日です。
 10歳前後で「これからのサッカー人生」を早々と断念させられることも、中学生になってから、まるでボールを追いかける犬のようにしか動けない哀れな姿を晒すことも、全て少年時代の著しく「不適切」の指導の被害です。そしてのその原因はただ一つ、大人が子どもを道具にして自分の虚栄心を満足させるというエゴに尽きるのです。