再び、いじめについて

 よくよく思い起こしてみれば「あれはイジメだったな」という体験を小学校、中学校でしています。もちろん、私は「している」側ではなく、「されている」側。
 ある日突然、クラスの中心人物がその取り巻きの「その他大勢」に指示するか示し合わせるかして、無視したり嫌がらせをしたりするのです。肉体的な暴力はありませんでしたが、精神的に苦しめようとする。
 でも、私はさほど苦痛とは思いませんでした。なぜなら、首謀者は別として、その指示に従う「その他大勢」の取り巻きたち、「寄らば大樹」の方になびくだけで実は一人になればなさけないくらい弱いヤツラを、心底軽蔑していたからです。「そんなチンケなやつらにどうこう言われても、痛くもかゆくもない」という気持ちがありました。
 振り返ってみれば、子ども心に、そういう「強きになびく」人間の矮小さ、いやらしさというものに何となく気付いたのですね。だから、むしろ、そんなヤツラの仲間なんかには絶対になりたくない、と思っていました。唯々諾々とボスの顔色を伺うような毎日がどうして楽しいんだ、と。
 考えてみたら今でもそうですよ。こういう仕事をしていると、批判、批評を思い切ってしなければならない。改善のためだからしかたがない。すると、即座にネット内で叩かれます。それはそれは多種多様な罵詈雑言の数々。とても親には読ませられない(笑)。
 しかし、そういうネット発言は、名乗らず、素性を明らかにせず、自分の身を安全な場所にしっかりかくしておいて、物陰から石を投げて逃げていくような行為です。言い換えれば、メディアに署名で掲載される実力、実績もなく、また、名乗って発言する勇気もなく、発言内容に責任を取る覚悟もない。つまり、いじめグルーブの中で後方から「そうだ、そうだ」とはやし立てている最も低級な人間がやることと同じなのです。
 ですから、そんな程度の人間にこの世の罵倒言葉の限りを尽くされたとしても、何とも思わないわけです。正々堂々と出てこられないから陰で大口たたくのでしょう、どーぞ、青白い顔して身を隠したまま物陰で寂しく人の悪口言っててください、ご苦労様、という感じ。
 さて、子どものイジメですが、今は、子ども時代の私のようにはなかなかなれないかもしれません。しかし、いじめている側のヤツらは実は下劣、低級、クズなのだと、一人では何も出来ないから力のあるヤツにすり寄っている実につまらない存在だと、密かに心理的に優位に立つことがまず大切と思います。心の中までは誰にも規制できませんからね。
 それと、イジメられて「参っている」と弱みを見せると、そういう低級な人間はますます調子に乗ります。だから、まずはヤセ我慢して「気にしてないぜ」というそぶりをみせること。また、時には「あいつキレたらヤバイ」とたじろがせるような、大胆な反撃もありです。
 反撃なんかしたら、よりエスカレートするかも...と心配しますが、本当に腕っ節の強さを誇示したいような人間は、あきらかに弱い者をいたぶることに満足を見いだしたりしません。イジメに快感を感じるような者は、たいして強くないことがほとんど。だから、真剣に反撃すると、引いてしまうことが多い。
 もちろん、最も大切なことは、イジメに走るような心理、行動を軽蔑する土壌をつくっていくこと。繰り返しますが、それは全て、周囲の大人たちの日常の言葉、行動にかかっているのです。