いじめは大人がつくる

 いじめのニュースが連日報道されています。
 もうすでに皆さんもお感じのことと思いますが、学校、教員委員会といった、いやしくも「教育」を表看板に掲げている人間たちの、吐き気を感じるほどの醜態を見せられると、「我が子をあんな輩の下に預けていいものか?」と改めて不安になる親御さんも多いのではないでしょうか。もしこの先、自分の子が不幸にしていじめの標的にされてしまったとしたら.....我が子の最も近くにいる教育、指導をすべき大人たちは懸命に「自分の保身」に走るだけで何も守ってはくれないのだ....と思うと、ぞっと寒気が走るでしょう。

 自殺した生徒に関係した教職員、あるいは所轄の教育委員会がこぞって回避に懸命になっている責任うんぬんはさておき、今のところ、彼らから「我が教え子を守れなかった無念」の感情は一切、伝わってきません。まるで、知らない土地で知らない人が不慮の事故で亡くなったことを傍観しているような白けた態度。私にとっては、それが一番、疑問。
 毎日の成長を見守り、少しずつ大人になつていく姿を見て喜ぶことが教育(サッカー指導も同じ)の最大の生き甲斐のはず。その生き甲斐の対象.....ある時まで息づかいや言葉、表情を感じていた....がある日突然、自ら命を絶っていなくなったとなれば、本来、直接、指導に関わった教育者は正気ではいられないでしょう。責任云々の前に、その「教え子を思う」感情が一番大切ではないでしょうか? それが表明されずに「関係ない」「気付かなかった」のオンパレードだから「人としてまともな感情をもっているのですか」と思われてしまう。
 さて、メディアではいろいろな防止策が討議されていますが、根治策にはなりませんね。人の心に「いじめ」を誘発する心理が育ってしまう以上、いくら外の形式を整えてもダメ。では、いじめの心理を植え付けないようにするにはどうしらいいのか。
 それはまず、子どもの周囲の大人が、弱者を蔑み、優勝劣敗につながるような言葉、態度を見せないことです。少数であること、弱者であることが、多数、強者から力の論理を押しつけられる要因になっては決していけない、ということを繰り返し“自らの行動で”示さねばなりません。
 サッカーの場面で考えましょう。「あんなチームから~点しか取れないのか!!」と怒鳴っているコーチ、「この相手なら、目標は~点とることだ」と公然と表明しているコーチ、「あのチームは弱いから勝てるさ」と語るコーチ、こうした大人の何気ない態度が子どもの間に「見下しても許される対象」をつくり、くだらぬ上下意識をつくっていくのです。これは、家庭の中でも同じです。大人の価値観を感じて子どもは育つのです。いじめをする子どもは、いじめの感情を抱くことが当然という環境に育ったまでの話なのです。そこから手をつけなくては、何も改まらないでしょう。
 しかし....政治家でも官僚でも大事故を起こした大企業でも、そして今回の校長、教育委員会でもそうですが...ああやって悪事を言葉巧みに鉄面皮でやり過ごし、安い頭をいくらでも下げることができる人間こそ、それなりの地位と収入にありつけるのだ、と毎日、証明しているのですから、子どもがいらぬことを学んでしまうことは避けられませんね××××××××。