危険と対策

 先日、学校おける子どもの転落事故についての分析研究のニュースがあり、その多くが窓からの転落であると伝えていました。
 ニュースの口調は、その「窓からの転落が多い」という分析結果が学校現場に十分に伝達されていないことを疑問視していました。つまり「だから転落事故が後を絶たないのだ」とでもいうように。続けて、とある学校で教員や父兄からなるグルーブが事故防止の点検マニュアルをつくり、「ここはよし」「ここもよし」と点検している様子がレポートされていました。そういう対策が必要だ、というように。
 窓からの転落の多くは、窓付近に棚や本箱があり、その上に子どもが乗り上がったことで、通常は乗り越えにくい窓枠から身を乗り出す形になったことが事故につながったと報告しています。そもそもそういう場所にものを置くことが危険管理上、認識が疎いのだということで関係各者の意見は一致しています。
 その分析自体に異論はありません。可能な限り危険回避の環境設定は必要です。
 しかし、何か喉の奥にものがひっかかるような気持ちがしました
 人が高い窓から転落するなでということは、相当なことです。よほどのことでない限り、人一人が窓枠を乗り越えて落下することはないでしょう。

 仮に窓近くに棚や本箱があって、そこに子どもが乗り上がったにしても、まずその子ども自身が相当の恐怖を感じるはずですし、また、そこで子ども同士の悪ふざけ等があって棚に乗り上がった子が体勢を崩すようなことがあった場合、悪ふざけの相手にも、「友達が落ちるかもしれない、危ない」という危機感があると思うのです。
 子どもは前後の見境がつかなくなるもの、予測不能な行動をするもの、という世間の常識のようなものがあります。ですから、子どもの事故があった場合、周囲の大人や環境の「管理責任」は声高に追究されますが、子ども自身の行動に焦点が当てられ議論されることはほとんどありません。そして、事故防止の環境が整っていれば悲劇はおきなかった、と結論づけられます。
 私は同時に、すぐ転落する危険がある場所に平気で昇ってしまう子ども心理、死と隣り合わせの危険な場所で注意した行動が取れない子どもの心理、という部分も分析する必要があると思います。「子どもだからしょがない」という一言ですまされないのではないでしょうか。
 先日も学校施設の使用に関して過去にちょっとした事故が起こったことを引き合いに出し、「使用を見合わせよう」という意見が通されたと紹介しました。学校の最高責任者である校長が使用許可を出しているにも関わらず、許可を受けた側が自主的に「使用見合わせ」をしたのです。「今後、絶対に同じ事が起きないとは言い切れない」という中年男性の意見が印象的でした。
 こうして、危険があれば即、使用中止、防止マニュアルで監視徹底。という、いたれりつくせりの防護策を用意し、わずかでも危険の匂いがする場所には近づけない、という環境で子どもを育てていくことで、逆に、危機管理ができない子どもを育てていることにはならないでしょうか。注意されなければ、教わらなければ、防護柵がなければ、怖さをしらずに死と隣り合わせの場所に身を置いてしまう子が育ちはしないでしょうか。
 そういえば、我がクラブの低学年の子たちは、ちょっとしたスリきずで驚くほど痛がり、治療を求めます。「そんなの平気だよ」と言っても、消毒、バンドエイドというお決まりコースを施さねば、いつまでもケガした、ケガした、と大騒ぎします。キズを受けることに対する耐性がひどく低い。「では、後で休憩の時にコーチが消毒してあげるね」といつても、親がその前に自前の救急セットで処置してしまいます。
 なるほど、そういう育ち方をしているからなのか,,,,。と納得することしばしば。考えさせられます。