拙著の重版で考える....。

 ちょうど一年前に上梓した拙著「賢いスポーツ少年を育てる」が第2版になったとの連絡を受けました。光栄です。この本も先日、第8版となった「スポーツはよい子を育てるか」と同様、いくつかの出版社に断られた後に陽の目を見たものです。別に、断られた出版社に皮肉を言うつもりはありませんが、わからないものですね、人の評価なんて。

 サッカーの選手も同じ。長い間、代表のセンターバック勤めた中澤選手は、高校卒業後、どこのチームからも取ってもらえない選手でした。中村俊輔選手は、マリノスでユースに上げてもらえない選手でした。長友欄手は、明治大学ではずっと雑用係でした。そんな話はあちこちにいくらでもあります。
 だから私は、セレクションで落ちたとか、レギュラーで使ってもらえなかったとか、そういう選手がいても、「選ぶ側の好みにすぎないから」「好き、嫌い、の話で、能力の問題ではないよ」と言っています。見る人が見ると、また、違った評価ができるものなのです。世の中の評価なんて、結構、適当なものなんですよね。
 サッカー解説者だってそうじゃないですか。あんなに話が下手で、何言っているかほとんどわからないのに、何で解説してるの?っていう人、結構いるでしょ。それどころか、「支離滅裂で全然、解説になっていない」「あれじゃ、ただの酔っぱらいのファンと同じ」というバカバカしさが逆にウリになって、人気者になってしまった例さえあるじゃないですか(笑)。あれ、間違いなく解説者としての能力が評価されているわけではないですよね。
 タレントや歌手もそうですよね。まるで学園祭の出し物のような素人同様の女の子グルーブが何かと言えば出てきてウンザリしてます。歌もダメ、踊りもダメ、顔もスタイルも並みかそれ以下。プロといえるのですか? それでギャラとれるんですか? でもしょうがない。選んで出す側が「好き」なんですから。でも、そのロリコン趣味を押しつけられる側はたまったものではありません。
 一番、恐ろしいのは、そういう素人レベルが「基準」なってしまうこと。「あれではダメだ」とは考えずに、次々に何とか48という学芸会みたいなレベルのグルーブがでてきています。本物の力を持った人たちを脇に寄せて、一時の流れにばかり便乗するセコさ。サッカー解説も、あのような「ただ状況をなぞって叫ぶだけ」が基準になってしまったら悲しいですね。
 そうえば、拙著「日本のサッカーはなぜシュートが決まらないのか」は、私の希望に反して、出版社側のゴリ押しでタイトルが決まったとお知らせしました。あのように長めの「何がどうしてどうなった」というようなタイトルが受けるトレンドだから、という理由で押し切られました。しかし、いまだ初版から抜け出せません。やっばりタイトル妥協しなければよかったな~。えっ?タイトルじゃなくて中身の問題?