松田選手

 松田直樹選手が亡くなりました。信じられません。大きなショックです。まだ34歳、倒れてわずか2日。あの強靱な心と頑丈な体がそんなにも脆く崩れてしまうものなのでしょうか。ご家族の心中を察すると言葉がありません。

松田選手には、雑誌「ナンバー」の取材で長時間のインタビューに応じていただいたことがありました。全ての質問にハキハキと淀みなく応えてくれる中、自分の欠点なども正直に告白してくれて、とてもオーブンで話の聞きやすい好青年でした。 
 松田選手とのインタビューで最も印象に残っているのは、2002年日韓W杯のロシア戦の後に行ったものです。フラットスリーの様子が緒戦のベルギー戦とは違っていたので、フラットスリーを構成する3人の誰かに話を聞こうと、選手がインタビューゾーンに出で来る出口のすぐ前で待ち構えていた時、3人の中で一番先に出てきたのが松田選手でした。
 「ベルギー戦の後、ツネ(宮本恒靖選手)とコウジ(中田浩二選手)とすごく話し合って、よ~く話し合って、トルシエの言う通りじゃだめだと。状況に応じてディフェンスラインは下げなければダメだということになりました。実際、強い国のディフェンスを見ても、リスクを犯してラインを上げているとこは少なくて、みんな必要に応じて下げている。だから次はオレたちも下げるべき時は下げようと。3人で決めたんです」
 トルシエの指示を見切って、選手が自らの判断でディフェンスラインをコントロールしたとのことでした。その結果、ベルギー戦のようにラインの裏を突かれて失点することなく、日本はロシアからW杯初勝利を挙げたのでした。その歴史的勝利の要因を、世界の誰よりも早く、ドレッシングルームから出できたばかりの松田選手に聞けたのです。
 横浜マリノスの戦力外になった後、かなり良い条件のオファーの数々の全てを蹴ってJFL松本山雅でのプレーを選択したのも松田選手らしい生き方でした。お金の額ではなくてプレーの意味を考える。モノ・カネよりも、自分の経験が何かの糧になることの方に生き甲斐を感じる。
 その心意気の志半ば。ビッチに前のめりになるように倒れたという松田選手。最後に自身が感じたであろう感触がビッチの芝だったということが、せめてもの慰めでしょうか。それにしても、あまりにも突然すぎる。