「強いリーダーシップ」の怖さ

 私たちは「強いリーダーシップ」というイメージに好意を抱きがちです。その資質を持った人物は、我々をよき方向に導いてくれる、という期待を持ちます。

 人は、なんだかもやもやする、どうしていいか決めかねる、よくわからない、といった不安定な心理をスッキリ整理したいという本能があります。そうした状況に「こうあるべきだ!」と自信満々に自説を展開する人物が現れると、「確かにそうかもしれない」と気持ちがなびいてしまいます。この手の人物は、多少の論理の破綻や矛盾など一切お構いなしに確信を持って自説を「言い切る」ので、聞く人はそれをなんだか確かな裏付けがある正論のように感じてしまいます。迷いに明確に答えを示してくれる人が現れた、と思ってしまうのです。

 かつて「フラットスリー」という戦術を看板にしたトルシエという監督がいました。「コンパクトな中盤でボールを奪取し7秒以内にシュートに持ち込む」という彼の説に対して私は「最終ラインが破られるリスクが高い」と終始ツッコミを入れていましたが、彼は「そのリスクはない」と強弁しつづけました。

 自説への批判を強く跳ね返す彼の立ち振る舞いに、多くの人が次第に「大丈夫かもしれない」と思い始めました。そして、選手の胸ぐらを掴んだり、汚い言葉で罵倒したり、といった「代表監督としていかがなものか」という行為も、いつしか「強いリーダーシップ」というイメージの下、さほど大きな問題とも思われなくなりました。

 ご存知の通り、日本代表のフラットスリーはW杯の初戦ベルギー戦であっさりと二度も破られ、初戦から破綻しました。そしてベスト8をかけたトルコ戦、先制された日本はがっちり引いて守るトルコになすすべなく敗れました。フラットスリーは、日本が相手にイニシアチブを握られ「攻められている」ことを前提とした戦術で、リードした相手に「引いて守られた」時の対策がなかったのです。

 このトルシエの手法ように何かを「決めつけた」戦術では大事な時に臨機応変な応用が効かないと、次の監督ジーコは選手一人ひとりが考え、判断する余地を多く持たせました。しかし「決めつけ」に従うことに慣れてしまった選手もメディアも「ジーコは何も指導しない」と批判しました。「強力なリーダーシップがない」と嘆いたのです。

 そして、多くの人が「トルシエの強烈なリーダーシップが恋しい」としました。あれから随分と時間が経ちましたが、あの時の「トルシエ恋し」という人々の気持ちの揺らぎには普遍的な「危険」が潜んでいたと今でも思っています。

 ロシア・プーチン、シリア・アサド、フィリピン・ドゥテルテ、ベラルーシ・ルカシェンコ…今、世界のあちこちで理不尽な行為を繰り返しているリーダーたちは、例外なく「強いリーダーシップ」を売り物にして権力の座を掴んでいます。かのヒトラーも、そもそもは彼のリーダーシップを買われて「民主的に」選出されているのです。

 ジーコのように「まず自分で考えよ」と「個」の判断を育てようとすると、多様な意見が飛び交い、まとまりを得るのに時間がかかります。反対に「オレの言う通りにすればいいのだ」と明確に方向づけをした方が簡単でわかりやすく、考えたり迷ったりせず言われたことに従っていればいいのでとても楽です。

 こうして強いリーダーシップに「方向づけられる」ことに慣れていくと、いつしかその方向づけが少しずつズレて行っても疑問をもたなくなり、気がつけば反論が許されない画一した考え、行動の中に埋没してしまうのです。

 そうした「流されていく人間の弱さ」にクサビを打ち込むのがスポーツです。なぜなら、スポーツでは一瞬一瞬の場面ごとに判断が求められ、プレーとはすなわち自己決断の結果だからです。常に「よりベターなことは何か」と判断、決断し、実行しなければスポーツは成立しないのです。

 「考えてスポーツする」こと、すなわち自律した判断、決断をすることが日常になっている少年たちを多く輩出することで、日本が危うい方向に靡いていくことを阻止できると信じています。