姿勢と評価

 港北FCの下部組織の小学生が地元の大会に参加しています。そこに顔を出していつも思うこと。我がクラブには、もう思わず笑ってしまいたくなるくらい、どうしようもなく「運動神経の鈍い」子が各学年、何人かずつ在籍しています。
 我がクラブでは、体の動きが鈍い、足が遅い、背が小さい、気が弱い、経験がない、などというスボーツにマイナスの要素は不問です。とにかく自分の能力の範囲で一生懸命やってくれればいい。一生懸命やってくれるなら、その姿勢を認めて、能力にかかわらずどんならヘタでも試合に出してあげる。そこで何か改善できることを探し出し、少しずつでも上達すればいい。他の子と比べるのではなく、過去の自分と比べてどれだけ成長しているかを考えていく。
 そんな方針の下「普通の子」あるいは場合によっては「普通以下の子」が通っても何とかやっていけるクラブは、多分、他にないのでしょうね。だから、自然とそういう子が集まってくることになる。それはそれで、いいことです。誰もが将来、スポーツで身を立てられるわけではなく、逆に99%以上の子が将来は間違いなく「普通のおじさん」になるのですから、子ども時代は運動能力の差別なく、皆がスポーツを楽しむべきです。

そんな私たちの方針に応えて、2年、3年と経つうちに「あの子がねぇ....」と思うような上達を見せてくれる例があります。「何と1点入れたのは~君ですよ」などという、興奮気味のコーチからの報告があったりすると、心底、嬉しくなります。
 それでも現実には、試合で仲間の足を引っ張る子ほど、サッカー以外の事(砂遊び、虫取り、など)に熱中して集合に遅れたり、指示を守れなかったり、忘れ物をしたりするものです。そういう子は、いつまでも簡単で初歩的な技術も身につかず、ルールや試合の進め方も覚えません。ボールを蹴ることよりも、アリを捕まえる方に大きな関心があるのですから、やむを得ないでしょう。
 低学年では、そうしたケースでも、とにかく粘り強く彼に「スイッチが入る時」を待ちます。4年生くらいから、その子の姿勢が変わることがしばしばあるのです。期待通り、大化けしてくれる例は毎年あるのですが、その一方で、高学年になっても相変わらずサッカーに対する姿勢に変化がない子もいます。そういうケースでは、今度はチームメイトの視線が厳しくなります。
 子どもは子どもなりに、その子が懸命に努力しているのか、あるいは適当にやっているのかを敏感に感じ取ります。生来の運動能力やバフォーマンスで劣っていても、懸命な姿勢が見て取れれば、ミスなどに決してきつい言葉を浴びせたりはしません。しかし、普段からその子に熱意が足りないことを感じ取っていて、そういう子がプレーで全力を出し切らず、中途半端なことをして平気な顔をしていると、子どもでも「何をやっているんだ」という気持ちになるのです。「上手い下手ではなく、やるのなら、ちゃんとやれよ」ということを、子どもなりに表現するのです。
 こうした子どもどうしの声の掛け合い、注意に関して、言われた側は「いじめられている」と感じることもあるようです。もちろん、注意する子の表現方法が適切でない場合もあるので指導は必要です。しかし、注意される側がどのような姿勢だったか、それがスポーツマンとして、チームスポーツの一員として適切だったか、ということを振り返ることも必要です。お稽古事の発表会とチームスポーツの試合とでは、まったく性格が異なります。
 運動神経は鈍くてもいい。自分なりに頑張ってくれれば誰でも試合に出してあげる。そんな我がクラブの方針を拡大解釈されて、練習に休み休みの適当な参加でも、他の行事を優先させてサッカーを休むような姿勢でも、向上心がないかのような反スポーツ的態度でも、試合だけは同じように出してコーチからも仲間からも褒めてほしい、と言われても、それはできません。特に子どもたちの純真な向上心に水を差すようなことはできません。
 私たちは運動能力で差別することはしません。しかし、それはどんな姿勢で参加しようと全て平等ということではありません。努力や取り組む姿勢のすばらしさを認め、それを評価してやらねば、高い意識を持って頑張っている子が浮かばれませんし、日々、向上を目指して精進するスポーツの意味そのものがなくなってしまいます。
 それにしても難しいですね。育成の指導は。運動神経のよい子ばかりを集めて勝ち負けの結果だけを追いかけている方が何倍も楽です。