弱者に対する感性

 可愛い盛りの3歳の女の子を夫婦がラインで示し合わせて虐待し命を奪ったり、極真空手の経験者である巨漢の男が「ガンを飛ばしたから」とやはり3歳の男の子を暴行死させたりと、イヌ・ネコにも劣る(こんな例えをしたらイヌやネコに叱られるかもしれません)悪魔のような心を持つ大人の犯罪に「血も涙もないとはまさにこのことだ」と身の毛もよだつ思いをしていました。
 今度はお年寄りです。介護施設の職員が「手のかかる人だったから」と入所者を施設のベランダから突き落としたとのこと。こちらも身の毛もよだつ話です。犯人くらいの若さなら、自分のおじいちゃん、おばあちゃんはまだ健在でしょう。突き落とそうとして細く小さくなった老人の体を車椅子から持ち上げたとき、自分のおじいちゃん、おばあちゃんのことをを思い出すことはなかったのでしょうか...。
 さて、幼児、老人といった「弱者」に対してどのような感覚を抱くか..。唐突なようですが、私はこれはスポーツ体験もおおいに関係していると思っています。
 優性劣敗、勝つことが全て。勝者が優れていて弱者は静かに退くべきもの...。このように勝って奢り、敗者を蔑むという体験を重ねていくと、次第に力あるものが弱きものを押しのけて進むことが当然といった感覚を身につけていきます。実際、週末のスポーツで勝った負けたの結果を学校でいじめの材料にするという話はいつまでたってもなくなりません。その辛い日常に耐えかねてチームを去った子もいます。
 勝って奢ることを日常としている子は、力の劣る弱い者に優越的な態度を取り、弱い立場にある人間を邪魔者扱いしても抵抗のない感覚を強めていくでしょう。一方、そうした環境で敗者として蔑まれてきた子は、何かのきっかけで自分より弱者である存在を見つけると、今度は自分が優越者になるために力を誇示し、それまでのうっぷんを晴らそうとするでしょう。
 スポーツは勝敗を争うものですが、その勝敗は人間の優劣を決めるものではありません。特に子どもの場合は、運動能力の高い子、体格のよい子、気の強い子などが多く集まっていれば、指導の内容がどうであれ、簡単に勝利できます。それは、人生の一時期に、特定の能力の、ある一部分に関して競い合った結果に過ぎないのですが、それを人間としての勝利のように勘違いしてしまう大人がいるのが問題です。
 少年の試合に長くかかわりながら思うのですが、えげつなく勝利にこだわり、勝って結果を残すことを誇示し、勝ち負けで他者を判断するような姿勢のチーム、子どもたちを見る度に、きっとこの子たちは弱者を思いやるような感覚が育たないまま大人になるのだろうな...足手まといのヤツは邪魔だからどけ...という感性の大人になるのだろうな...と感じます。
 幼児や老人の虐待につながるような、社会的弱者を厄介者、邪魔者扱いするような感覚が芽生えないようにするために、少年スポーツにおける教育は重要な役割を担っていると思うのです。