いじめのニュース

 このところ、いじめが原因と推測される子どもの自殺のニュースが目立ちます。生きているのがいやだ、明日を迎えたくない、とまで思い詰める辛さとはいかほどなのか、私たち大人は努力して想像してみる必要があります。
 いじめる側は、少しでも自分が優越していると思える要素が見つかり、相手に反撃する力がないとわかった時、居丈高になります。なぜ、外見や行動が多少、仲間と違うと感じるだけで、そういう仲間をすぐにはじき出そうとするのでしょう。それは、そうして「自分より下」という対象をつくっておかねば、安心できないからです。自分が確かなランキングの位置を占めていて、そこより下の位置に誰か「弱い」者がいる、という確証がほしいのです。
 これは、もの心つかない頃から常に「競争」でランクづけされている悲劇でしょう。勝たねばならない、いい点を取らねばならない、と勝者の側にいることだけが存在の証という環境で育つために、常に自分が勝者として振る舞える対象を探さねば不安になるのです。いじめる時の「仲間と違う」という動機は、賛同を得やすい理由付けです。「そう思っているのは自分だけではないから」という逃げ道があるからです。
 先日、強いことで知られている近隣のサッカークラブで、能力の劣る子に試合の詳細を伝える連絡網が回ってこないことがあると聞きました。ヘタなので試合に来てもらっては困るから教えない、ということなのだそうです。真偽のほどはわかりませんが、本当だとすればそら恐ろしいことです。子どもだけでなく大人も加わって優勝劣敗、弱者排除の概念を徹底しようとしているわけですから。
 そんな子どもたちが通う学校ですから、少しのことで平気で仲間を排除するという環境ができあがり、排除されて辛くて仕方がない、という子どもがてできても不思議ではないかもしれません。社会を作り、仲間と助け合わねば生きていけないのが人間です。そういう行為は人間として最も蔑むべきものである、という教育を私たちはしていかねばなりません。そして、そうした教育は何も先生だけに委ねるものではなく、全ての大人が家庭で、グラウンドで、町中で、あらゆる場面で行わねばならないのです。