「子どもと話し合いの結果」はジミントーの強行採決と似たり寄ったり

 忙しさにかまけて一ヶ月以上、ご無沙汰してしまいました。いろいろとお伝えしたいことはたまっている(笑)のですが、まずはこの話題から。
 いつのころからか「親子でじっくり話し合った結果」というフレーズをよく聞かされるようになりました。クラブからの退団とか、受験とか、子どもの今後の行動が決められる時に親から発せられる「決め文句」です。
 そのフレーズを発する親は、決して高圧的に自分の意思を子どもに押しつけてはいない、という体で、いかにも「子どもの意思を最大限、くみ上げた上での結論です」という言い方をします。そして「本人も望んでいることなので」と結論づけます。
 こうした「お決まり」のフレーズを聞く度に、私は心の中で「ウソつき!!」と(笑)と叫んでしまいます。なぜなら、そもそも40歳を過ぎた大の大人と10歳かそこらの子どもとの間に、本当の意味で「対等な」話し合いなど存在しないからです。
 確かに親は子どもに「あなたはどう思うの?」と意見を言わせる機会は設けることでしょう。しかし、そこで子どもが親の意図に反する、あるいは親の想定外の答えを返して来た場合に、「ああそうなんだ、わかったよ」と子どもの意思を受け入れることなど絶対にあり得ないのです。
 親には40年以上の人生経験があります。子どもがどのような「意思」を表明したとしても、「なるほどね...でもね..」とか「確かにそうだけど.、それでも...」とか、いくらでも子どもの意思を親の考える方向にいいくるめてしまう知恵を持っています。そもそも子どもの言い出すことくらい、全部予想できていますから、それをどう誘導するかの作戦は事前に成立しているのです。「受験は嫌だ、塾なんか行きたくない」という子どもの意思は、どう転んでも100%押しつぶされる運命にあるのです(笑)。
 国会で「十分審議は尽くした』として強行採決するのが常套手段の人たちがいるじゃないですか。あれと似ていますよね。話し合いなんて「しました」というアリバイをつくるための儀式みたいなもので、先に結論が決まっている。
 「いや、そんなことはない。本当に子どもが望んで同意したことなのだ」と反論する親もいるでしょう。そういう親は、「話し合い」の場で一時的に誘導したのではなく、日頃から時間をかけて「洗脳」しているだけの話で、違うのは時間的な流れだけです。「受験していい学校に入れねば将来、大変なことになるぞ」と普段から言い続けていれば、子どもは自然にその気になっていく、といういうわけです。時期がきて「さあ、いよいよだぞ」と言えば、子どもも「わかったよ」となるわけです。
 「子どもと話し合った結果、子どももそう言うので決めたことです」と、いかにも物わかりのいい親のフリをして、「決定は子どもがしたこと」と子どもに責任をなすりつけるようなことをしている親の子どもは哀れです。むしろ「ウチはそういう教育方針ですから、子どもが何と言おうと私の思うようにしていきます」と堂々と宣言して、子育ての全責任は自分が負う覚悟だとする親の方が、かえって大人として潔いですね。