弱者排除の声とスポーツの勝利至上主義

 五輪報道で下火になってしまった相模原の事件報道ですが、どうしても忘れてはいけないことがあるので、敢えて今、もう一度、振り返ります。
 私が「忘れてはいけない」と強調したいのは、容疑者が障害者を「世の中の役に立たないから死んだ方がいい」と考えたことに対して、ネット等で一部、賛同する声が挙がったことです。
 経済原理に基づき、生産性の高いものに価値があり、そうでないものは切り捨てていくべき、という思想は、私たちの生活の根底に根強くあります。幼い頃から受験に血眼になるのも、結局はいずれ経済的に裕福になるため、という考えに基づいています。進学する大学や学部を選ぶのも、多くは学びたいことがあるという知的好奇心からではなく、就職に有利か否か、という経済原理からです。音楽や芸術など経済的生産性の不透明なものに熱中すると「それで食えるのか」と非難されます。
 今やスボーツも有名校への推薦入学の手段となり、それが実現するなら、暴君のような指導者に罵詈雑言を浴びせられ非科学の極みのような練習をすることさえ受け入れることが普通になっています。
 地元の少年クラブで学校の友達と勝ったり負けたりを楽しむことでは不十分と、「強い」とされるチームに遠方から通って「結果」ばかりを追求する親子も珍しくありません。チームの活動も、少しでも無駄なく効率的に強化するためと、練習回数と大会参加をどんどん増やしていきます。それでも足りないと、チーム練習がない日には他のスクールに通って、徹底的に技術を磨きあげている子もいます。
 そうした勝利のための「経済効率」が支配するチームでは「運動能力が低い」、つまりドンくさいということが、一番、チームを困らせます。経済原理に基づき、勝利至上主義を貫くなら、ドンくさいという最も非効率的な要素は、真っ先に切り捨てねばなりません。ドンくさい子が試合に来ると困るので、わざと連絡網を回さず欠席するようにした、という近隣チームの実話を聞いて驚いたことがありますが、少年スボーツで経済原理を徹底すれば、そうしたことも起こりえるのです。
 スポーツで勝利するために、それに貢献しない者をのけ者にする、目的に対してムダなものは排除していくという思想は、相模原の事件に根底でつながります。容疑者に賛同する冷酷な声の持ち主たちは、ドンくさい子の家にわざと連絡を回さない母親と根底では同じなのです。
 ところで、「世の中の役に立たない者は排除すべき」とする容疑者とそれに賛同する者たちは、自分と家族、親戚一同が死ぬまでずっと壮健で常に高い生産性を発揮できると思っているのでしょうか?
 彼らは自分が仕事を病欠することになった時「オマエは休んだ数日の間は役立たずだから」とクビにされる覚悟はあるのでしょうか?
 いつか病気や怪我をして入院するようなことになった時は、生産性がなく医療費をムダ使いしている人間だからと、殺されてしまう覚悟はあるのでしょうか?
 仮に自分の子が、あるいは親類の誰かの子が障害を持って生まれてきたとしたら、すぐに抹殺するのでしょうか?
 そもそも、視力が悪いとか、内臓に疾患があるとか、関節が痛いとか、アレルギーだとか、誰でも多かれすくなかれ健康上の障害を抱えて生きています。自分は何もかも100%理想的な健康体で、どこでも誰にも少しの世話になっていないのでしょうか?
 そして、自分がやがて年老いて歩くこともおぼつかなくなったとき「オレは社会の無駄遣いだからすぐに殺してくれ」と宣言する覚悟があるのでしょうか?
 そもそも他者と自分の「強弱」などまったく相対的なもので、その時、その場の状況でいかようにも変化するものなのです。弱者を排除せよと声高に叫ぶ輩は皆、自分が弱者になる時のことを想像することができていません。強ければいい、勝てばいい、ドンくさいヤツは邪魔、と優勝劣敗の思想にまみれているチームの子たちには、そうした大人になっていく可能性があります。恐ろしいことです。