日本サッカーの悪しき象徴

 4月7日の日本代表はひどい試合内容でした。岡田監督の手腕うんぬんを批判する向きもありますが、私はもっと根の深い問題があると感じています。
 最も大きな問題は、日本の選手がゲームをしていないという点です。ゲームとは競い合いであり、相手を凌ごうとする意志のぶつかり合いです。それは、力づくでぶつかり合う場合もあれば、創意工夫をこらして攻略する場合もある。現れてくる形はさまざまですが、要は、対戦相手と相まみえる中で、一歩でも先に進み、一段でも高いところに達するという意志がなければ成立しないものです。セルビアの選手にはその「ゲームの意志」が見えましたが、日本代表の選手たちはゲームそのもの参加していないように感じられたのです。
 失点とビンチの多くは、似たような場面からつくられています。つまり、ボールを持った選手が自分で局面を打開することを恐れ(ゲームを放棄し)、別の選手に無責任にパスをあずける。ボールを受けた選手にもやはりゲームに参加する意志が薄いので、ボールはさらにつぎに回される。回される毎にボールに込められていく「闘志」は薄れていきますから、何度目かのバスでは、すっかりボールから「攻めの意志」が削がれている。
 一方、強い意志でゲームに参加し、隙あらば効果的なプレーをしようと狙っているセルビアの選手にとって、バスの回数が増える毎に弱々しくなっていく日本代表のボールを奪い取ることなど簡単です。だらだらとつながれたバスはいともたやすく狙い打ちされてカットされます。そして、ボールを奪ってからのセルビアの選手たちは、余計な手間暇をかけずに、一気にゴールを目指します。まさに得点したいという本能、最もゴールを奪いやすい方法をまっ先に選ぶという姿勢が浮き彫りになっていました。
 日本代表は攻撃陣と同様、守備陣もゲームを放棄していました。本気でゲームに参加しているなら、ビンチになれば血相を変えて相手をストップしようとします。その時、組織だのバランスだのコンビネーションだの、理屈は後回しです。相手を追いかけ回して、体を投げ出して、スクランブル体制でしのぐものです。しかし、日本代表の選手たちは失点しても「オレが悪かったのかい」という顔をして責任逃れをしようとする。ゲームの当事者でなく、傍観者のような顔をしていました。
 時期的に、また、試合設定として、日本の選手は高いモチベーションが保ちにくかったのかもしれません。チームとして確固たるコンセブトでまとまりにくい試合だったのかもしれません。しかし、そのように外的な「縛り」が弱い時こそ、人は「素」の姿をさらしやすいのです。はるばる時差を超えて空路やってきたセルビアの若手選手たちも、特に強いモチベーションが発揮しやすい状況ではありませんでした。互いが「素」になりやすい状況で、一方はゲームを放棄するという本性を現し、一方はゲームの本質である相手を攻略する意志を示した。
 私自身、いい年になった今でもなお、試合をすれば対面する相手に負けまいとし、何とか得点をしたいと思い、そのためにできるだけのことをしたいと感じつつ肉体の苦痛に耐えます。その肉体の苦しみ、思うままにならない精神的ストレスの中から、満足できるプレー、得点、勝利という一筋の光を見つけ出す喜びが試合(ゲーム)に参加する醍醐味でしょう。素人であろうと、ブロであろうと、一度ピッチに足を踏み入れて試合(ゲーム)という環境が目前にあったら、体は自然にその醍醐味を求めてしまうのではないかとおもうのですが???
 引退したラモス瑠偉さんが現役時代、子どもの試合の中に混じっても本気でムキになることは有名でした。ラモスさんにとって、ゲームはゲームだったのでしょう。そういう人だから、40歳を過ぎてもなお、素晴らしいプレーを見せてくれたのでしょう。