長幼の序

 先日、とあるグルーブのとある会合に呼ばれたときの話。
 本番がはじまる前、待機のような時間がありました。待機場所の部屋には私を含めて10人ほどの大人たち。こう言っては何ですが、私の思い入れ等は抜きにして、社会通念上、あるいはその会合の性格上、私がその十数人の中で最も権威ある位置にいたはずです。また、戸籍上の年齢でも、間違いなく私が最も年長者でした。
 その部屋ではイスはちょうど人数分程度あり、机をぐるりと囲むようにセットされていました。入り口から最も奥の、一般的に「上座」と呼ばれる位置には男性が2~3人どっかと座り、その周囲に女性が取り巻くように座っていました。
 私が入室し、うろうろと立っていてもだれも席を勧めてくれません。もちろん、私は偉ぶることが大嫌いですし、そうした扱いで憤慨することも一切ありませんし、別に疲れていたわけでもなく、立ち続けることは苦でも何でもなかったので、しばらくは立ったままでいました。
 そのうち「世間一般では、こうしう状況なら、どうなるのだろう」などと考えました。私の頼りない“立場上の権威”はともかく、最年長者が立ったままというのもよろしくないだろうと思い、一番端の机のカドの部分にあった一席(世間一般では末席というのでしょう)に浅く腰掛けてみました。
 そのことで、誰かが「あ、すみません、気がつかずに、こちらにどうぞ」と、いわゆる上座を空けるようなことがあるのかな.....と、ここからは探求心がもたげてきました。いわゆる末席に、はみ出すように座る年長者という状況を、この人たちはどう受け取るのだろうか???。
 状況は何一つ変わりませんでした。上座の男性たちは相変わらずふんぞり返り、とりまく女性たちも、私に飲み物や食べ物を勧めることもなく、自分たちは飲み食いに夢中です。なるほど、そうなのか。多分、30代~40代と思われるその人たちには、日本で古来、守られてきた長幼の序という概念が希薄なのだな、と思いました。
 繰り返しますが、私の立場上の権威など吹けば飛ぶようなものですし、ただ年長者というだけで偉ぶることも嫌いです。ですから、私自身はそのような扱いを受けても特に憤慨することもなく「なるほどそうなのか」と、納得するだけです。しかし、彼、彼女らがこの先、いわゆる「世間」でどのような行動をとっていくのか、少し心配です。なにより、彼、彼女らから家庭で教育を受けている子どもたちが、同様の行動形式を「当たり前」としていくことに不安を感じます。
 長幼の序は孟子が提唱した概念で、儒教の伝来とともに日本でも尊重されてきました。儒教が提唱する五輪、すなわち長幼の序、父子の親、君臣の義、夫婦の別、朋友の信は、長年、東アジアの価値観として守られてきたものの一つです。それが変化しつつあることも確かです。世代と共に価値観はかわるものですが....複雑な気分です。