勝つ環境、育つ環境

 以前、高校バスケットの大会でセネガル人留学生を擁した学校が優勝したものの、その留学生が年齢を偽っていたことが判明、優勝を取り消されるという事件がありました。

 セルガルからわざわざ人を買ってきてでも(表現はキツイですが、ブローカーにカネを渡して斡旋してもらうわけですから「買う」で間違いないでしょう)勝たせたいという、さもしい根性にも辟易しますが、その選手当人が実は高校生ではなく大人だったという事実には呆れるばかりです。
 しかし、こりもせず高校バスケット界では今もセネガル人が闊歩しているようですね。新聞にセルガル人がいるのに負けたとか、セルガル人の活躍で勝ったとか報道されていました。あ~あと思いながらしばらくたつと、今度は高校駅伝のゴールシーン。テーブを切っているのは黒人選手。そう、長距離界ではもう珍しくなくなりましたねケニアなどからの留学生。
 留学生といっても別に日本で勉強をしてそれを母国で役立てるという本来の意味での留学をしているわけではなく、スポーツで勝つための「傭兵」として招かれているわけで、事実上、プロなわけです。別に彼らが来たからといって、日本のレベルが上がっているわけではありません。バスケットは何十年もオリンピックに出られないし、北京五輪で日本のマラソンと長距離は惨敗ばかりでした。そんな事実が厳然とあるのに、留学生を並べて勝ったと胸を張る指導者たち。その貧困な哲学には吐き気さえ催します。
 中学、高校の在学プレー期間は実質2年半。種目に関わらず、そこで「指導力」のみで成績を残すことは非常に難しい。言い換えると、良い選手を多く集めてしまえば、ボンクラの指導者でもそこそこの成績は残せるのです。良い選手を集めるには「強い」という評判が必要。だから、指導内容や指導方法はさておき、プロセスはともかく勝って良い成績さえ挙げてしまえばいい、そういうエゲツない図式はもう日本中に行き渡っています。
 私が若い頃、サッカーで能力のある選手たちは、決して「強い」だけではチームを選びませんでした。どういうチームカラーで指導者はどんなサッカーを伝授してくれる人なのか、そんなことを十二分に吟味した上で、敢えてさほど強くはないチームを選ぶことも珍しくはありませんでした。

 しかし、今はそんな例は少なくなりましたね。チームや進学先を選ぶ選手の側も、「強い」なら指導者の哲学や指導内容など不問、とにかく「勝つ」チームの一員でいたい、そういう打算的な考えが増えています。だからでしょうね、各年代で「名門」といいわれ常勝チームから日本を代表するような選手がさほど輩出されていないのは。そういうチームの出身者が日本代表になっても、まったく世界に通用しないような雑なプレーを露呈するのも、高校くらいのレベルで勝てるプレーに特化し切って育ってしまった結果でしょうね。
 これからチームを選ぼうとしている中学生、高校生の諸君、自分の成長のためにはどういう環境がいいのか、親子共々よく考えた方がいいですよ。地元のエースでも、全国大会に出場する名門校に入って3年間タマ拾いという例など腐るほどあるのです、というより、そういう人の方が多いのです。