魂の気高さ

 震災の影響が未だいろいろな形で私たちに降りかかっています。「被災地慎を思えば」という合い言葉の下、各自が少しずつ我慢を分け合っているのですが、一方で「自分だけ」という卑しい心理が露呈する醜い事例も増えています。
 残り一つになったお米の袋を買おうとする人の横から、カゴに三袋も入れた人がさっと持って行く話、水の汚染が懸念されるので「乳児のいる家庭に優先してミネラルウォーターを」と呼びかけている都市で、家族ぐるみで水を買い占める乳児のいない家庭、福島付近から避難してきた車が止まっていると「汚染しているから移動させろ」といきまく住民、十分に足りているのに「念のため」と当面不要のものまでごっそり買いだめする人....。
 ただ自分のことだけを考え、全国的な協力体制に棹さすようにことを平気でしていて、後はしらんふりをして平然と「被災地は大変だね」などと言っている。腐り切った魂。
 何事も、本当の人間性は非日常の時、一大事の時に試されます。普段、景気のいいことを勇ましく叫んでいても、いざとなると尻込みするという「ヘタレ野郎」は結構いるものです。
 震災とは直接、関係ありませんが、私も別のことで最近、この「ヘタレ野郎」に散々な目に遭わされました。あるタフな交渉事なのですが、「みなで団結しよう」という話に同調し、いろいろな準備を進め、段取りを整え、いざ実行となったら「やっぱりオレ一人だけは下りる」と平然とはしごを外されました。ケンカの時、自分は手を出さずに人垣の後ろで「そうだ、やっちまえ」と強がっていて、本当に殴り合いが始まると怖くなって逃げるヤツがいますね。それと同じ。
 何事もすべからず実行するにはリスクはつきもの。成果を得るためには多少はキズつくことに覚悟が必要です。心身共に消耗があることは覚悟しなければならない。無傷で美味しい成果だけ得ることはできないですよね。しかし、いざとなると怖かったのですね、自分だけは傷つきたくなかったのですね、そいつは。
 困難や大きな決断に直面した時、何を選び、どういう行動をするかで、その人の人間性は示されます。人生の哲学がそこに現れます。「魂」の気高さが試されます。損か徳か、という目前の実利だけではなく、理念、信念、真理で動けるかどうか、自分だけではなく「全体」のことが見通せるのか否かが示されるのです。
 動物のように、ただ生きるだけの毎日を送るのではなく、「いかに生きるか」が選択できる人間として生まれてきたのだから、できるなら気高く、魂を輝かせて生きようではありませんか。ずるをして、抜けがけをして、自分の目前の小さな実利を確保することだけに腐心して、あとは息を潜めて隠れているような、魂の死んでいる人生を送ることでいいのかどうか、考えましょう。
 今朝の新聞に、普段、収入では割の合わない僻地の治療に尽力していながら、今回の震災で現地に真っ先に飛んでいった医師が紹介されていました。当分、床屋にもいけないと覚悟し、自ら頭を丸刈りにしての行動だそうです。気高いです。魂が光ってます。