理解不能

 気持ちよく晴れ渡った秋のある日。横浜市金沢区にある「海の公園」のグラウンドでサッカーの試合がありました。11:00に試合は終了、ボールなど用具の後片付けをしようと車に帰った時に見かけたのが写真の様子です。

 中学生か、高校生か、わかりませんが、ティーンエイジャーが二人、、グラウンドと駐車場を結ぶ階段の日陰部分にうずくまるようにして何かをしています。どうやらスマホでゲームをしているようです。

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 極めて強い「違和感」を覚えました。

 青空が眩しい快晴の小春日和。彼らが身を寄せ合っているその階段をほんの数段上がれば、芝生の広場と自由に3on3ができるバスケコートがあります。そしてさらにその先には松林のある緑地帯があり、目前には砂浜と海が広がっています。快晴の休日、その緑の広場にも海岸にもまったく関心を示さず、階段の日陰でフードを被ってひたすらゲームに熱中するって...どんな感性? 

 ていうか、君たち何のためにここにきているの?日陰でうずくまってゲームするなら、わざわざ「海の公園」にくることないじゃん。

 でも、こういう風景に「違和感」を感じる人がこれから先、少なくなるのでしょうね。今やいたるところで誰もが四六時中スマホと睨めっこしています。先日は乗っている自転車をわざわざ止めて入力している人がいました。「目的地についてからではだめなの?今する必要があるの?」と思ってしまいました。コンサートが始まる直前、会場が暗転した後でLineをしている人もいました。その時も「今じゃなきゃだめなの?」と思いました。

 晴れた日の澄んだ空気や緑や海よりもゲームの方に魅力を感じる感性...。私はそれを「異常」だと感じます。そして、そういう感覚が体内にまだ残されていることを「人類」として幸せだと感じました。

 

引き際

 スポーツ選手には引退がつきものです。肉体の酷使が必須の職業である以上、止むを得ないことです。引退の形はそれぞれで、「まだやるの」と周囲が心配するまで選手生命を全うする選手がいる一方で「まだできる」と思われるうちに次のステージに進んでしまう選手もいます。サッカーで言えば、前者の代表がキングカズこと三浦知良選手、後者の代表が中田英寿さんかもしれません。

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 彼らのように、人生哲学が明確でそれに信念を持って決意したことであるなら、どちらの道を選ぼうとも周囲は皆、納得することでしょう。ところが、そうした誰もが納得する「引き際」を考えられる賢明な人ばかりではなく、もう退くべき段階に来ているにもかかわらず醜く地位にしがみつき、保身そのものが仕事のようになっている人がいるから困ります。

 アメリカでは、選挙で負けたにもかかわらず「選挙自体が無効だ」と息巻き、何があっても大統領の椅子は譲り渡さない、とゴネている人がいます。屁理屈のようなあらゆる手段を使って「勝ったのはオレだ」と主張し、大統領府に居座っています。仮にその屁理屈を通して前代未聞の再選をゴリ押ししたとして、その後 「お前はダメだ」と投票した過半数の国民をどう取りまとめていくつもりなのでしょうか。

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 きっと、とにかく権力さえ手にしてしまえば、歯向かうものを次々に辞めさせればいいだけだ、と考えているのでしょう。醜く地位にしがみつく人の常套手段です。そうして強権を振りかざしていく人の先には、必ず悲惨な「追放」という末路が待っています。権力や権利を振りかざしたとしても、結局は人の「心」をつかめない人間は惨めな最後を迎えるのです。チャウセスク、フセインカダフィ...皆なんと悲惨な最後だったことか。

 人の「引き際」を考えるとき、いつも平成天皇のことを思い出します。「象徴」としての立場を深く思慮し、その役目を完遂できないならその地位にいるべきではない、と決意され、前例の縛りや法的拘束がある中で、最も適切と思われる形を選択し、その立場を禅譲することを熟慮された。退かれる時には、多くの国民が労いと感謝の気持ちを持ち、まるで自分の祖父母をいたわるような気持ちで見送りました。

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 私自身も含めて、世の中の大小さまざまな「地位」にある人たちは、この平成天皇の見事な「引き際」を忘れないでほしいものです。アメリカのあの人にはぜったいに無理でしょうけどね。

「進級」に思うこと

 毎年、この時期になるとサッカークラブ来期4月からの中学生のチーム編成に関して頭を痛めます。まず小学生の部からの進級メンバーを募りますが、子どもの意思に反して親御さんが昇格を認めないケースが出てきます。

 ナイター練習になるので勉強ができなくなる、というのが一番多い理由です。確かに学校から帰宅して、19:00~21:00の練習に参加すれば、練習日にはほとんど自宅学習の時間はありません。一方、学校のサッカー部は18:00完全下校ですから19:00前には帰宅できます。とはいえ、夕食を済ませて、就寝までの間、毎日、本当にしっかり自宅学習をするのでしょうか? また、部活動にでは「朝練」などもあると聞きます。早朝に登校するために早く就寝したり、また、寝不足になって夕食後は眠くて学習どころではない、という状況にはならないのでしょうか?

 ナイター練習で時間が制限される分、練習日ではないときにしっかり学習をしなさい、と私のクラブでは指導しています。時間は「使い方」でどうにでもなるものだと。ある時、偏差値の高い有名大学に通っているトップチームの選手が試験期間でもナイター練習に休まず参加しました。「大丈夫なのか?」と問う私に彼曰く「毎日、練習があるわけではないし、練習日でも練習時間は24時間のうちのたった2時間。工夫次第でいくらでも勉強はできます」。その一方で、あまり偏差値の高くない大学に通ってる選手は「試験なので休みます」と申告してきました。

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 「ナイターでは勉強ができないので」と学校のサッカー部を選んだ子が、クラブでプレーすることを選択し3年間ナイターで活動を続けた子どもと、結局、同じ高校に進学したという皮肉な話がいくらでもあります。大学進学時では、クラブ所属を継続した子の方が高い偏差値の学校に進んだという例もいくつもあります。

 「お金がかかる」というのも、クラブチームでプレーを続けることへの忌避感に繋がっています。学校のサッカー部ではわずかな「部費」ですむ一方で、クラブチームは相応の会費がかかります。しかし、例えばユニフォーム類はサッカーをプレーする以上、どこに所属しても揃えねばなりませんし、合宿や遠征に費用がかかることも同じです。差は会費。「会費を払ってまで」選ぶ価値があるか否か、ということになります。

 学校のサッカー部では希望者全員が入部し50名超ということも珍しくないとか。顧問の先生は多忙で決して毎日指導に顔を出せる状況ではなく、大会にも学校単位で出場するために3年生中心のチーム編成になり、よほどの力量が無いと1年生から試合に出ることはできません。クラブが会費を頂いているのは、チームの所属人数を指導の効果が行き渡る人数に制限し、担当コーチを配属して選手全員の成長をきめ細かに見ていく環境を整備し、各学年ごとに試合経験をしっかり積んでいける体制を確保するためです。

 こうした「差」を理解していただいているのか、気になります。私たちが6年間、提供してきた環境が決してサッカー界共通の「当たり前」のことではなく、別の環境に行っても同じように用意されているわけではない、ということに気がついていただいているのか、気になります。特に子ども自身、我々がずっと彼らを見守ってきたように、別の環境に移っても新しい指導者に同じように気にかけてももらえる保障はないのだということに、気がついてくれているのか心配です。

 最後に、まだ来春は遠い遠い先なのに、もう今から進級のことをあれこれしなくてはならない状況にため息が出ます。一人でも優秀な素材を確保しようと、子どもの「青田買い」が年々、早まって、もう7月のうちに選考会を行うチームがでているのです。6年生になって、たった2~3ヶ月で中学のことを決めるなんてクレイジーですよね。そこまでしてチームの勝敗にこだわる。どう考えても異常です。

 

 

過剰対策は誰のため?

  withコロナという生活様式が求められる中、感染予防を前提として様々な活動が再開されています。アマチュアスポーツの試合、大会も「恐る恐る」といった体で始まりました。ようやく「スポーツのあるの日常」が帰ってきたことは嬉しいのですが、相変わらずあちこちで奇妙な現象に遭遇します。

 ある大会では、大会第1試合の14日前からの検温表を提出しなければなりません。大会の当日、試合に際して皆がしれっとした顔で14日前からの検温長を提出していますが、本当にその日の14日前から毎日、検温していたのでしょうか?

 もちろん、このご時世ですから、大会に参加するか否かにかかわらず、検温をルーティン化している人もいるでしょうが、現実にはそうではない人も多いはず。よろしくない事ではありますが、14日前から「計っていた」ことにして、表には実際は計っていない体温を記入している人もいるかもしれません。

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 そうした、曖昧な実情があることが前提であることを皆、内心、知っていて、ある意味「儀式」として表を提出している部分もある。しかし、大会本部は「提出しなければ絶対に試合に出さない」と息巻く。表の数値が本当に検温されたもなのか、適当に書き込んだものなのか、その区別はどのようにするのでしょう? もし、体温の高低が感染予防に大きな意味を持つという認識なら、試合直前に一人一人、実際にその場で体温計で検温すべきでしょう。

 子どものスポーツを応援する保護者も、密を避けるためなのか「ここから先は立ち入らないように」「声を出さないように」と厳しくを制限されます。しかし、制限区域外では皆、肩を寄せ合う距離で我が子の活躍に一喜一憂し、試合が終われば仲の良い家族同士で子どもも交えて長時間談笑している。仮に感染が起きたら「それは規定で制限した場所以外での感染です」と科学的に立証できるのでしょうか?

 あるグラウンドを使うのに、前の時間枠で使っていた団体と次の時間枠で使う団体が同一空間にいないようにと、誰もそこに立ち入らない「無人」の枠を間に1時間も設けている、というケースもあります。前の枠の利用者も、次の枠の利用者も、グラウンド外では日常的に他者と隣り合い、同一空間で過ごすことがあるというのに、グラウンド使用時だけは絶対に「他者と交わるな」という。

  同じ学校のクラスでA君は野球チーム、B君はサッカーチームに入っていて、普段は机が隣同士、というケースがあります。休み時間も仲良く遊ぶ。しかし、休日にその学校のグラウンドを使うときはA君とB君は別団体なので絶対に交わってはいけない、となるのです。奇妙な話です。

 ウイルスは「人間の理屈」に従ってはくれません。いつ、どこで、誰から、どのように、人の体内に侵入するかは、誰にもわからない。だから、皆、「少なくとも自分は予防に最大の努力をしました」というアリバイをつくっておきたいのです。過剰な予防策の徹底は、「コロナから皆を守ろう」という本物の人類愛の意識からというよりも、やはり「感染はオマエの対策が甘かったせいだ」と言われないためなのでしょうか?

 

 

「密」を避けるとは?

 先日、とある県営スポーツ施設で子どもたちの練習試合を行いました。使用時間は炎天下の11:00~13:00。人工芝のグラウンドは強烈な日差しに照りつけられ地表温度は軽く40度超えています。その施設は地形的に谷底に位置するため、風通しが極めて悪く、熱気がこもっています。熱中症への対策を万全にせねば、とコーチ間で話し合っていました。

 いつもなら利用者が三々五々入れる広い入口の門が、その日は堅く施錠されています。なぜか???管理室に問い合わせると、使用直前まで開門しないとのこと。多分、コロナ対策ということなのでしょう。けれども、それにどんな効果が...???施錠されているために、開門を待つ4チームの子どもたちとその父兄が入口前に大勢集まっていて、いわゆる「密」の状態が作られています。開門まで「密の状態で待て」ということでしょうか?

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 いよいよ入場時間になりました。係員は「入口はこっち」と脇の狭い入口を示します。その狭い入口を目指して4チームの子ども、父兄がどっと移動します。とても「密」な状態です。そして狭い入口に全員が殺到します、ここでもとても「密」な状態がつくられます。いつもの広い門を開放してくれれば、こんな「密」は絶対につくられないのに....???

 さらに驚くことが。管理者は「屋根があるスタンドには座らないで、人工芝のグラウンド上に座れ」というのです。長時間座っていたら低温やけどになってしまうであろうほど熱せられている人工芝の上に...!!!。多分、スタンドに座ると「密」がつくられるということなのでしょう。それにしても、炎天下、真上から太陽の日差しを受ける推定地表温度45~50度の場所に2時間座れ、という感性はどんなものなのでしょう?

 ふざけるな!!!と厳重に抗議しました。

 この炎天下、唯一の日陰をなぜ使わせないのだ!!!と。

 施設側は「しぶしぶ」という感じでスタンドへの入口に堅く貼っていたローブを外しました。私は「皆さん、密を避けるために必ず2席空けて座って下さい」とお願いし、全ての子ども、父兄がその「約束」をしっかり守ってくれました。皆が「2席おき」に座ってもスタンドにはまだ空いた席が十分ありました。

 後日、「先日スタンドを解放したことは特例です。次回からこの場所で日差しを避けて下さい」という「通達」がありました。この場所とは施設横にある木陰なのですが、スタンドでは「密」が生じるが、その木陰では「密」は生じない、という論理なのでしょうか?限られた木陰のスペースに4チームの関係者が殺到したら「密」は必然で、かえって危険です。

 いうまでもなく「密」をつくるかどうかは、場所の問題ではなく、その場にいる人の心がけ次第です。場所にかかわりなく、各自が「密を避けた行動をする」ことが全てです。施設側が利用者の「密」に関する良識が信じられないというなら、係員が常時確認に来て「密」になりそうな状態が見られたら「もう少し離れてください」とお願いすればいいだけのことです。

 「密」の回避を理由に炎天下でも屋根のあるスタンドを立ち入り禁止にしているのは、利用者の良識を全面否定する極めて高慢な姿勢です。「見回りが面倒だから禁止にしてしまえばいい」という怠慢な職務態度の表出です。彼らが次回から木陰の利用を促したのは、そこが「施設外」の場所で責任回避できるからでしょうか?

 よくある話なのですが、結局、守りたいのは子どもでも利用者でもなく「自分」なのですね。

 時間が来て、子どもも父兄も再び狭い出口に殺到し「密」な状態を保ったまま退出したのでした。

 

 

 

5名ずつ利用のロッカールーム

 本当なら今頃、日本中がオリンビックで盛り上がっているはずでした。梅雨明け後の猛暑を体感する中で、来年、本当にこんな劣悪なコンディションで最高レベルの競技が実施できるのか? 何千、何万という観客がこんな気候の中で移動、観戦に耐えられるのか?と思ってしまいます。

 さて、先日、サッカーチームの練習で使っている公共のグラウンドの管理者からこんなことを言われました。「選手たちの着替えは外ではなく、ロッカールームでお願いします。ロッカールームは5人までしか使えませんので、順番に使って下さい」

 管理者が「5名までの使用」と言ったのは、もちん、コロナ禍で「密」を避けるためです。ただ、コロナ禍とはいえ、たった5名ずつの利用にならざるを得ないのは、そもそもロッカールーム自体が利用人数に対してひどく狭いからです。

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(写真はイメージで本文とは関係ありません)


 コロナ禍うんぬんに関わらせず、もともと選手たちはその施設を使うときは外で着換えています。狭いロッカールームの使い勝手がひどく悪いからです。激しい競技サッカーの選手たちですから、着替えでは当然、下着も全部着換えます。

 施設の周囲は公園仕様になっていて、そこには子どもを連れたママとか、応援の女性も現れます。そこで何人もの若い男性がお尻を出して着換えている場面に遭遇したら、気持ちのいいものではありませんね。「あれは何とかしてほしい」と苦情が寄せられたようです。

 オリンビックで大騒ぎして巨大な競技施設が建設されている一方で、一般のスポーツ愛好者が利用する施設はロッカールームが狭くて使い勝手が悪く、外で着換えて女性から苦情を受ける、という状況です。しかも、そんな使い勝手の悪い施設でも、日曜日に確保しようとすると100倍を超える抽選倍率になっています。

 何か変ですね。お金をかける場所を間違えていないでしょうか?メダル、メダルと騒ぐのはいいのですが、スポーツの裾野をしっかりと整えずして、市民の中から優秀なアスリートは育まれません。

 オリンピック開会式が行われるはずだった日、池江璃花子さんが発したメッセージの中に「スポーツが決してアスリートだけでできるものではない、ということを学びました」とありました。ちろん、池江さんは関係者のサポートの支えについて感謝の念を持って語ったのでしょう。

 しかし私のように「裏事情」をよく知っている者にとってその言葉は「オリンピックは既に、スポーツそのものとはとはまったく関係ないところで大事なことが決まっていくようになってしまった」という意味に聞こえてしまいます。

 来年、酷暑の中でオリンピックが行われたとして、100倍を超える抽選倍率の施設で、若者が外でお尻を出して着換えざるを得ない状況は改善されるのでしょうか?

アスリートは政治の話をしてはいけない????

 雀士・黒川さん(笑)の一件に芸能人が批判的コメントを発表したことを批判する人がいました。曰く、政治をよく知りもしないくせに生意気を言うな。また、アメリカで黒人男性が警察官に殺されたことに抗議の声を上げたテニスの大坂なおみさんにも批判の声があったようです。曰く、アスリートは政治の話をするな。スポーツだけしていればいい。

 実にばかばかしい話です。人間で政治に関係のない人はただの一人もいません。生まれた瞬間から人権が生じ、戸籍が与えられ、法の規制や保護に囲まれて生きていきます。いや、人間だけではなく、ペットや動物だって、いろいろな法律、条例にかかわっている。電気をつけて、水道を使って、ゴミを捨てて、道路を歩いて、交通を使って、学校に行って、仕事やバイトでお金を稼いで、お金を払ってモノを消費して、危害が加えられたら警察に頼って、病気になったら医療の世話になって、互いの利害が衝突したら裁判に頼って...我々の人生の森羅万象が「政治」にかかわっているのです。

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 買い物中のママたちの「最近、野菜が高くてこまるわね、何とかならないのかしら」という会話の中にも、消費税、流通の合理化、商店の経営と法人税など、政治的要素が内包されています。自分たちが生きやすい世の中にしていく。そのために、皆がいろいろ知恵を出し、意見を出し合って世の中を変えていく。それが政治です。

 日本は住民の全てが政治に参加する方式ではなく、自分の意思を代弁してくれると期待できる議員に託す方式がとられています。ですから、その議員たちが何をしているかを監視し、いけないと思ったことをしたら批判して正していくことを、全ての人々が行わねばなりません。議員たちが行っていることに口出しすべきではない、というのは、まったくもって間違った考え方です。

 特にスポーツは「政治とは別」と強調されますが、政治と関係しないスポーツはあり得ません。その最たる象徴がオリンピックです。オリンピック招致に政治的策略を絡めない元首など存在しません。招致にともなって進められる建設、施設整備にかかわる業者と政治家の関係なしには大規模な開発、整備はすすみません。コロナ禍でワクチンの開発すら目処が立っていないのに、「来夏に開催する」とアベノマスクの送り主(笑)が息巻いているのは、自分の首相任期が秋に終わる前にどうしても「二度目のオリンピックを開催した首相」という名誉がほしいからでしょう。

 日本の各スポーツ団体の会長とか顧問とか理事とかを調べてみましょう、ずらりと政治家の顔が並んでいます。許認可を得たり交付金を得たりするのに、政治的な力が大きい人物と密接な関係を築いていることが有利だからです。また政治家も、そのスポーツ団体の構成員の数を利用して知名度アップを狙うのです。

 トップアスリートも政治家同様、知名度は高いので、その発言や行動は影響力を持ちます。でも、その発言や行動をどのように受け取るかはスポーツファンそれぞれの理性です。スポーツのプレーも好きだし、言っていることも好き...でもいいし、その反対でもいい。そのアスリートの思想、哲学、信条が支持されるか否かは、発信される内容によるでしょう。

 かつてボクシングのモハメド・アリさんは人種差別と戦い、テニスのビリー・ジーン・キングさんは女性差別と戦いました。それぞれの発言、行動がアメリカ社会の改革に多大な影響を与えたことは確かです。そういえば、現在、女性アスリート長者番付で大坂なおみさんが世界トップなのだとか。これもキング夫人の努力があってこそのことなのです。