神聖な大会の中止を機会に視点を変えたら

 インターハイ夏の甲子園など、学生スポーツの全国大会が新型コロナウイルスの感染防止のため中止になりました。「この大会のために全てを賭けてきたのに」という落胆の声がメディアで取り上げられています。各界著名人も「かける言葉もない」といったコメントを発しています。

 私はかねてから、学生スポーツに「唯一無二」と神聖視する大会があり、その覇権を「負けたら終わり」というノックアウトシステムで競うという形式に疑問を持っていました。

 予選の一回戦から「負けたら全てが終わり」なので、常に最強メンバーしか起用することができず、限られた数の選手だけが貴重な体験を積んでいく。主力はケガを押してでも出場を続ける。強豪校ではレギュラーの何倍、時には十倍を超える人数の「レギュラー外」の選手たちが、ひたすら下支えをするだけで満足な実戦経験もしないまま3年間を過ごす。

 「負けたら全てが終わり」なので、終わらないように強力な選手を全国から集める。「教育の一環」などは空しいお題目に過ぎず、スポーツ技能のみの評価で入学、進学が認められて、選手は全国をまたにかけて動く。全国から集められた選手は、学業が主体なのか、部活動が主体なのか、本末転倒したプロまがいの活動を、ナイター設備の整った専用グラウンドで展開する。選手は僚生活で管理され、徹底してスポーツ技能の向上に特化した生活を送る。

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 こうして、わずか17歳、18歳の少年たちに、唯一無二の大会に「全人生を賭ける」という意識が植え付けられていきます。だから、負けた途端に「全人生の終わり」「宇宙の終わり」という絶望感が襲いかかり、立ち上がれないほどに泣きじゃくる、というシーンが毎年のように繰り返されます。

 私は17歳、18歳の少年たちが「唯一無二」の神聖な大会にノックアトシステムで全人生を賭けるような方式ではなく、リーグ戦方式の大会をたくさん開いて、調子の落ちた選手、ケガをした選手が休めたり、レギュラーにボーダーラインの選手が試されたり、また、2軍、3軍の選手でもしっかり実戦経験を積めるような環境を整える必要があると思っています。

 17歳、18歳の段階で人生の集大成のような意識を持つのは早すぎます。そのために学業そっちのけでプロまがいの生活を送ることにも反対です。心身共に柔軟なハイテーンの時期は、唯一無二のことに全てを賭けて猪突猛進するのではなく、多様な見地を開拓し、自分の足らざる部分を知り、自立した大人になっていくための基板を整えるべき時期です。人生を賭けて猪突猛進するのはプロ選手の仕事です。

 いい機会です。学生時代のスポーツの目標が「たった一つの大会」であり、それで負けたり、あるいは大会自体ががなくなったりしたら、「一体何のために...」と呆然とするような設定はもうやめたらどうでしょう。試合自体は色々あるので、次の機会で上達の度合いを見極めればいい、とか、次の機会では新しいことを試してみよう、とか、次の機会こそは勝負にこだわってみよう、とか、そのようにスポーツ体験を通して豊かな体験をしつつ人として自立していく環境づくりにシフトしていくというのはどうでしょうか。

 少年たちが「負けたら終わり」という試練を背負ってひたむきに頑張っている姿に感動する。そこに学生スポーツの良さがある。という視点は、観戦する側の身勝手な思いです。学生たちは「見る人の感動」のためにスポーツをするのではありません。彼らには彼らの80年、90年の人生があります。そしてそれは、決して17歳、18歳で結論を出すような「軽い」人生ではないはずなのです。

オリンピック必要ですか?

 コロナ騒動で、今年開催するはずだったオリンピックが一年、延期されました。

 延期した後、いつ開催するのかに関して、さまざまな議論がありました。なぜなら、いつ再開したとしても、ほとんど全てのタイミングで各種スポーツのビッグイベントと開催時期がバッティングするからです。

 この延期後の開催時期に関する議論の中に、すでにオリンピックが今や特別な意味をもつ存在ではなくなっていることが示されています。

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 例えばサッカーでは、W杯が最も権威のある最高峰の大会であり、オリンピックはさほど大きな位置づけではありません。ですから、ある時期までは強豪国はオリンピックチームなど本気で強化せず、参加も「お付き合い」程度でした。

 現在、サッカー界ではオリンピックは「23歳以下」のカテゴリーのW杯と位置づけることになり、サッカー強豪国の意識も多少は変わりました。しかし23歳以下のチームは、いわば「 Bチーム」という認識ですから、今現在でも、強豪国ではオリンピックチームの成績などに深くこだわることはありません。23歳以下でも優れた選手はみなW杯向けのA代表に選出されているのです。

 同様に、野球はワールドシリーズが最も権威のある大会であり、バスケットボールもNBAを制することがオリンピック優勝よりはるかに価値があるわけです。テニスもウインブルドンを筆頭にメジャー大会の優勝が選手最大の目標であり、陸上でもマラソンを筆頭に、世界陸上や各種メジャー大会で優勝するこの方が重要な意味を持つようになっています。

 昔は、オリンピックがなければ一流の競技を観戦することができませんでしたが、今や、各種目ごとの世界大会が十分に充実してきています。そして、それらの大会では賞金も十分な額が準備され、そのことでアスリート生活を普及させる環境が整備されつつあります。オリンピックメダルの名誉だけに選手が人生を賭ける時代は遠のいています。

 このように、オリンピックは既に唯一無二のスポーツの祭典ではなくなっているのに、開催費用、原発の汚染に関してウソのプレゼンテーションを行い、賄賂を駆使して開催の票を集め、大会後の運営が赤字になることが必至の施設をつくり、人々の日常生活や交通に多大な負担をかけつつ、一ヶ月間に複数の競技を一斉に開催するという形式を強行することに意味があるのでしょうか?

 オリンピックはとうの昔に、その起源である古代オリンピックとはまったく異なる大会に変わり果てていていますし、近代オリンピックの創設に尽力したクーベルタンの理想ともかけはなれたイベントになっています。膨大な費用を嫌って開催都市に名乗りを上げる数が激減しています。

 現代社会にこうした形式のスポーツイベントが本当に必要なのか、コロナ騒動による開催時期延期は、オリンピックの意義を考えなおすいい機会ではないでしょうか。

  

 

抜け道を使っても速く正解を出しさえすればいいの?

 自分が指導するサッカーの練習でのこと。ボールリフティングに類する少し難しい技術的課題を示して「目標は5回」と言いました。

 ある子どもが「コーチ、これでもいいの?」と、見当違いな方法を示してきます。彼が示した方法は、確かに私の指示した「5回」という目標をギリギリ達成する「近道」ではありましたが、なぜその課題に取り組むのかという本来の「意味」から見れば、まったくもって「的外れ」な形であり、意味のない行為でした。 

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 その子は、別の課題を提示した時も、しきりに「コーチ、これもアリ?」と自分なりに解釈した方法の是非を問いかけてきます。彼が示すものは全て、私が指示する回数や距離などを達成するための、いわば「抜け道」的な方策ばかりです。

 最初は「そうではなく、このように」と一々、訂正していたのですが、提示するメニューごとにあまりにくどくどと問い合わせてくるので、「そのやり方で自分が上手くなると思うなら、そのやり方でやればいい」と突き放してみました。

 こんなこともありました。まずパスをしてシュートのお膳立てをする、それが終わったら次はシュートする側に回る、という形式の練習をした時です。気をつけるポイントは、シュートする仲間にコース、強さ、角度、タイミングを考えて上手なパスをする、ということでした。

 その子はしかし、パス役でボールを蹴った後は、自分の蹴ったボールの軌道や、そのパスを受けた仲間の様子を一切、見ることなく、脇目も振らずに一目散にシュートの列に向かうのです。「ねぇ、君のパスは今~君にうまく渡っただろうか?」と問いかけると、どぎまぎした顔をします。

 この子のように「なぜ、それをするのか」という意味を吟味せず、ひたすら機械のように形式的に動く一方で、それを合理的に短時間でクリアする「方策」を見つけ出すことに対しては異常なまでにエネルギーを注ぐ、という子どもが増えてきました。

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 これは、ただひたすら一定の法則性に従って計算問題を解くスピードを養成する学習業者に代表される、「テストで合理的に正解を出す」訓練を業態とする業者たちの戦略に、子どもたちが毒されすぎた弊害と分析しています。

 抜け道的な方法を使ってでも「とにかく結果として5回やればいのでしょ」という発想は、受験には役に立つのかもしれませんが、スポーツの訓練では最悪です。自分の力量と課題を棚に上げて、手抜き、省エネにエネルギーを投入するような発想は、まったくもってスポーツに向いていません。

 幸い、「目標は5回」と言う私のそばで「僕、10回に挑戦してみる」という子どもがいます。「コーチ、8回できたよ」と満面の笑顔で報告する子どもがいます。「そうそう、そういう気持ちはとても大切なのだよ」。こういう子がいるうちは、まだ大丈夫かな、と胸をなで下ろします。

「意味」を理解できる人間になれるか?

 徳間書店から「子どもがスポーツをするときにこれだけは知っておきたい10の本質」を上梓します。

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 拙著「スポーツは良い子を育てるか」「賢いスポーツ少年を育てる」で訴え続けてきた「少年時代にスポーツする意味」を再確認しつつ、公的組織の管理強化、SNS同調圧力などの影響で画一化、従属化が進む少年たちの行動の中に、スポーツを通じて「自立」を促していくための提案が盛り込まれています。

 時あたかも新型コロナ騒動。TPOを度外視しての中止、禁止、延期、が乱発されています。震災の時の節電騒動、昭和天皇崩御の時の自粛騒動を思い出します。「横並び」に紛れることで思考停止をしてしまう。

 最近、自分が指導する子どもたちに「コンピュータや機械と人間の違い」を強調しています。厳然とした違いは「意味を理解できる」ことであると。

 塾で鍛えられている子どもちたは、最速で正解にたどり着くための方法に長けています。しかし、「なぜ、それをしているのか?」について、つまり「意味」はほとんど考えない。プログラム通りに正確に動く機械に似ています。

 日本の青少年の読解力、理解力が年々、低下しているとのこと。指示されたことを、まじめに、正確に、しかし「流れ作業」のように淡々とこなす子どもたちを見ていると、「ああ、こういうことなのだ」と納得します。

 子どもたちが、聞き分けの良い、指示に忠実に従う、真面目な「機械」になっていくことを、スポーツは食い止めることはできるのでしょうか? この本を読みつつ、考えていただきたいと思います。

 

 

 

子どもは盆栽ではない

 先日、サッカークラブのある保護者から「どうして今の子は負けても悔しいと思わないんでしょうね?」と言われました。試合に負けても何もなかったように淡々としている子が多いと。

 「それは多分、何もかにも親が先回りして与える生活が当たり前になっているからでしょうね。自分で強く欲して、我慢して、我慢して手に入れて、むさぼるように吸収していく、という経験がないからでしょう」と答えておきました。

 この子には今~が必要だ、今のうちに~をしておく必要がある、と、子どもの意思や欲求とは関係なしに親が環境を準備することが多くなっています。溺れたら困るから水泳を習え、身を守るために必要だから空手や合気道を習え、情操教育には音楽が大事だからピアノやバイオリンを習え、計算が速いとテストに有利だから算数教室に通え...などなど。

 そこに子どもの主体的な意思はほとんど介在しないので、子どもは「言われたからやっている」「親の勧めで行かされている」ということになります。そんな活動、どれだけやっても自分自身の意思で「意欲的」に没入することなんて絶対にありませんよね。その程度の気持ちだから、負けたって平気なのです。失敗しても平気なのです。上手くならなくても平気なのです。

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 このように「我が子にこうなってほしい」という親のエゴが先行している様子をみると、私はいつも盆栽を連想します。

 盆栽は植物元来の成長を意図的に改変して、作者が「美しい」と思う姿に仕立てていきます。針金を使って枝の伸び方を矯正したり、余計だと思われる枝を切り捨てたり。その結果、本来なら太陽に向かって伸びる枝が下向きになったり、左右がひどくいびつな形になったり、という作品ができあがります。

 完成した盆栽には作者の意図が乗り移っていますが、植物側に立った見るなら、自然の法則を無視した人間による虐待ですよね。植物に意思と言葉があるなら「なんでこんなことされるんだ」と嘆くことでしょう。でもそれができないから、じっと耐えて人間の価値観で品評されることに甘んじねばなりません。 

 親主導で習い事をたくさん「やらされている」子どもは、表面上は盆栽のように親の思惑通りになっていきます。しかし、一つひとつの活動に注入する意思と集中力は希薄になり、どの活動にも一心不乱に没頭することはなく、薄く広く舐めるような活動を続けても、結局、何一つ情熱を注ぎ込むものを見つけることができずに終わります。 

 水泳の四泳法ができても海難事故に遭えば助かりません。護身術を身につけていても凶器を持った暴漢に襲われればひとたまりもありません。楽器を習ってもそれを生涯の友とする人は希です。塾で身につけた「受験術」など、社会人になれば何の役にも立ちません。

 少なくともサッカーに集う子供たちには「好きだ」「やりたい」「上手になりたい」という子ども自身の意思があってほしいものです。自分で選んだものに没入して上達していく喜びを見いだしてほしいものです。私は盆栽づくりに協力するのはいやです。

 

ラグビーの方がずっと面白い

 U-23日本代表の試合、悲惨でしたね。

 ポゼッション率は高い、基本的にボールは支配している、相手の厳しいプレスをかいくぐってパスがつなげている、そして、攻撃的な位置でサイドに起点がつくれている。「さぁ、ここからどうする...」というところで、少しでもリスクが見えると後ろにボールを戻す。これのくり返し。

 日本がボールを戻して「丁寧にやり直し」をしている間に、相手はしっかりと守備の組織を固める。そして「さあ来い」と多くの相手DFが待ち構えているところに無理して細かいパスでねじ込もうとするから、ガツンと返されてカウンターを食らう。

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 第一戦のサウジ戦で、そのくり返しの中からカウンターを受け、PKを献上して敗れたのに、第二戦でも同じ事を繰り返した末に終了間際にまたまたカウンターを受け、ワンチャンスを決められて二連敗。

 学習能力ある?とか、サッカーIQ低すぎない?とか、色々と言いたくなるけれど、彼らだけの責任ではないような気もします。だって、彼らは幼少期から「これが“良いサッカー”なのだよ」と言われ続けたことをただ実践しているだけなのだから。

 彼らのサッカー辞書の中には「多少リスクがあっても思い切って勝負を仕掛ける」なんて概念はないのです。「千載一遇のチャンスを一撃必殺で決めてやる」なんて概念もないんです。だから、伸るか反るかの一対一の勝負なんて仕掛けられないし、仮にカウンターのチャンスの当事者になっても、強引に最後まで突き進むことはできず、「味方の数が揃う」まで待つことを選択するのです。

 悲しいかな、彼らはそう育ってしまったのです。言い換えると、そのように育てているのが日本のサッカー界ということです。

 あんな、まだるっこしい責任逃れの「たらい回し」のパスを見せられても、観客は興奮しませんよね。カウンター食らって慌てて、ボール取られてファウルで止めてカード貰って時間稼がれて...何から何まで相手の「思うつぼ」にどっぷりと浸かっている。そんな幼稚なサッカー、見たくないですよね。

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 一方、W杯以来、ラグビー人気はかなりのものです。トップリーグには多くの「にわか」ファンが駆けつけました。そして、ラガーたちはそのファンの期待に応えるべく、激しく勇気あるプレーを披露しています。

 倒されても倒されても前に進む、止められたら味方がフォローして進む。スクラムでは、皆が力を合わせて1mでも前進しようとする。相手の攻撃は身体を激しくぶつけて阻止する。戦って戦って戦い抜いてトライを勝ち取るのだ、という選手たち強い意思がプレーから伝わってきます。サッカーのなさけない「たらい回しパス」に比べたら、こちらの方がずっとエキサイテングで面白い。

 サッカーU23代表の醜態を見せられた後、ラグビートップリーグの試合を見たら「こりゃ完全にサッカーの負けだ」と思いました。「観客の心を掴む」という点では、はるかにラグビーが高いレベルにある。あんなサッカーしていたら、ファンはみんな、ラグビーに流れて行ってしまうでしょう。

 日本のサッカー界は、ラグビーに負けないくらいエキサイティングなプレーする選手を育てていかねばなりません。

 

 

スポーツの「知の戦い」

 もう正月になってしましたしたが、私が独断で選ぶ2019年のスポーツ大賞を発表します。

 それは北野嘉一選手です!!!。

 ....???えっ、それ誰? ラグビー日本代表やゴルフのシブ子さんじゃないの? ボクシングの井上直弥だってものすごいことしたよ...それよりもすごいアスリートって、一体だれ?

 はい、では北野選手を紹介します。彼は、現役の京都大学の学生で、野球部員、外野手です。京都大が所属する関西学生リーグは、同志社大関学大近畿大など6チームで構成され、京都大は毎年、最下位がほぼ定位置。

 当然ですよね。他大と違って、京都大はスポーツ推薦入学なんてできませんから。まず日本でトップの学力がないと入れる大学ではない。京都大に入れるトップレベルの学力があって、そのうえで野球もトップレベルで上手な人....なんてまぁいるわけがない。

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 ところが今年、京都大は4位に躍進。その立役者の一人とされるのが、打率4割5厘でリーグ首位打者を獲得した北野選手なのです。

 「大賞」を授与したいのは、彼の野球への取り組み方。まず自身の身体の改造。打撃力アップに必要な筋力強化を下半身中心に行い、筋肉で体重を4キロ増量してパワーアップ。そして、対戦相手の投手の動画を撮影し、投球法、球種、配球の傾向、クセ、などを徹底してデータ化して研究しました。

 相手投手のカウントごとの配球は表計算アプリを活用してグラフ化され、どういう場面でどういうボールをどこに投げてくるかが視覚化したデータは、チームメイトに共有情報としてプレゼンされました。通学中の電車内は、こうしたデータを予習、復習する大事な時間だったといいます。

 リーグで対戦する相手投手は皆、高校までに全国的な活躍をしてきた精鋭たち。リチウム電池ノーベル化学賞を受賞した吉野彰さんと同じ公立進学校出身の北野さんが、まともに戦ってかなう相手ではありません。しかし「彼は初球の80%は~を投げる」とか「彼が勝負球として投げてくるのは70%は~」というように、北野さんの頭の中には各投手の投球パターンがしっかりとインプットされていたのです。

 こうした努力が実り、打率4割超えという大活躍になったのです。その打率の中には、プロからドラフト指名を受けた投手から奪った二安打も含まれるとのこと。

 スポーツは、生来の運動能力と体格の差が大きく影響します。速さ、強さ、大きさ、などは、どんなに努力しても絶対に埋められない部分がある。しかし、逆立ちしてもかなわない部分をどんな創意と工夫で埋め合わせていくのか、さらには、どんな戦略、戦術で戦い、攻略していくのか、という「知の戦い」があるから面白い。

 北野選手は、まさにその「知の戦い」の価値を示してくれました。どんなスポーツでも99%の人はプロになれない。しかし、このように「知の戦い」を駆使しながら1%の天才たちに立ち向かっていくのも楽しいですね。

 彼の打撃への取り込みは、まさに科学的、論理的であり、その手法とデータ処理、活用の方法は、今後の研究、ビジネスでも流用されていくことでしょう。スポーツで優れた「知の戦い」ができる人は、結局、どんな分野に行っても「できる人材」として活躍するのです。