生産性が大事というなら...

 先日、あるTV番組で「3度の食事は全て栄養素が計算されたパウターを水に溶かして飲むだけで15秒間で終える」とい若者が出演していました。

 「どうせ最後は便になって排泄するのだから、何を食べても同じ。調理から片付けまで多くの時間をかけることは非生産的」とのこと。彼は「母の愛」すらもムダで非生産的なものと切り捨てていました。与える一方で「見返り」がないから、とのことでした。

 彼は日常生活の森羅万象を「生産的であるか否か」で分類し、非生産的なことは一切やらないとのこと。そのおかげで、一流大学を卒業し、仕事でも同年代の平均年収の二倍を稼いでいるとのこと。

 私は画面に向かって思わず「君は今すぐ死んでしまいなさい!!」と不謹慎なことを叫んでしまいました(笑)。

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 だって君ね、君が今、どんなに「生産的」な人間を自負していようと、日本の産業を大転換させるような業績を残せるわけではないし、ビル・ゲイツ並み実績を残せるわけでもなく、ましてやアインシュタイン的な英知を極めるわけでもないでしょ。

 あと40年もたてば、君が「生産的」と自負していた労働人生も終わってしまうのだよ。そして50年、60年たてば君の給料の額も業績も誰も覚えちゃいないし、100年たてば君のささやかな人生そのものが忘れ去られてしまう。

 そして「食べ物が結局は便になる」と君が言うように、「人間も結局、死んでしまう」のだよ。結局、最後は死んで忘れられてしまうのに、生きている今、何かを一生懸命やることなんて、これほど「非生産的」なことはある? 

 そもそも君の人生は長くて90年。地球だって何十億年か後には消滅する。私たちからすれば気の遠くなるような時間だけど、太陽にだって寿命がある。宇宙もビッグバンから百何十億年もかけて膨張しづつけているらしいが、やがて限界に達したら収束してビッグバン以前に戻るという説もある。

 そういうスケールで考えれば、生命も宇宙もいずれ必ず消滅する運命にあるのだから、生命が誕生して一生懸命進化して、人類になって争いをくり返しながら地球を汚染し続けていること自体、神の視点から見ればまったく「生産的ではない」ことなのですよ。

 ...と、画面に突っ込みをいれながら、ふと思い出しました。かつて小学生の教え子に月曜から一週間、くまなく習い事でスケジュールが一杯の子がいました。少しでも空き時間があれば一つの枠もムダにせず、そこでできることをどんどん突っ込んでスケジュールを埋め、あらゆる技能、知識を詰め込んでいる、という感じでした。

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 親は合理的で生産性の高い時間管理をしているつもりだったのでしょう。しかし、当の子どもは集中力の欠如、心理ストレスを示す仕草などが目立ち、どう考えても許容量オーバーという感じです。そこで母親にスケジュールの見直しを箴言しました。「どれも削れないらせめてサッカーだけでも休ませてやってくれ」と、サッカー指導者としては奇妙な(笑)お願いまでもしました。

 その会話の中で、母親から「サッカーはやってても何もなりませんしね...」という言葉を聞きました。「何もならない」ということは多分、サッカーは進学にも就職にも直接、役には立たないという意味でしょう。つまり、彼女の言う「生産性」にとってサッカーは意味のないことだったわけです。

 確かにそうです。少年サッカーなんて極めて非生産的な行為です。そもそもスポーツは経済的には消費する一方の行為で、商業的に価値のあるもは何も生産しません。土地があればスポーツグラウンドにするよりマンションを建てた方が経済的には理にかなっています。

 しかし、そんなスポーツの「非生産的」な行為がどうして有史以来、何千年もの間、人間を引きつけてやまないのでしょうね? そこにスポーツをする「意味」が潜んでいるのではないでしょうか? 「15秒メシ」の彼には絶対に理解できないことでしょうけど(笑)。

  

本当に楽しいの?

 それ、本当に楽しいの? ....と疑問に思うことがあります。

 野球の甲子園大会、サッカーの全国大会などの出場校で、50名とか100名とかの部員の中で3年間、一試合も出場機会のない部員たち。野球部、サッカー部に入部したはずなのに、伸び盛りの青春時代を、野球そのもの、サッカーそのものがまともにできないまま3年間を過ごすことに、一体、何の意義を見い出しているのか、と思うのです。

 「たとえ試合には出られなくても、耐えて努力し続けたことが後の社会で役に立つ」などと、もっともらしい通説があるようです。バカバカしくて呆れてしまいます。「耐える」ことに価値を見い出したいのなら、何も大好きな野球、サッカーという場を3年間ムダにしなくても、毎日、冷たい滝にでも打たれ続ければいいのです(笑)。

 全国大会の「スタンド応援要員」になるよりも、たとえ県予選の2回戦、3回戦で負けるかもしれないけれど、9イニング、あるいは90分、自分の考えたように思い切りプレーできる環境の方が、スポーツのプレイヤーとしてはよほど楽しいと思うのですが。

 さて話は変わって、私が指導する少年サッカーでも「本当に楽しいの?」と思うことがあります。
 少年時代は競技力向上よりもスポーツする楽しさを提供することが優先。だから、子どもたちにはとにかく「サッカーが好き」という気持ち、「もっと上手になりたい」という気持ちがあることが全て、と思っています。

 

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 しかし、そんな気持ちが感じられない子もいるのです。私が「集合」の笛を吹くまでは他の子のように自由にボールを蹴らずにサッカー以外のことをしている。私が課題をデモンストレーションしても、あまり興味なさげにぼんやり見ている。その課題を失敗しても「次は失敗しないように」という前向きな姿勢はなく、平気でくり返し失敗し続ける。チーム内で紅白戦をしても、夢中でプレーを楽しんでいる様子はなく、明らかに集中力を欠いている場面が多い。

 そんな子を見ていると「君は本当にサッカーが好きなの? サッカーすることが楽しいの?」と聞いてみたくなるのです。

 「そういう子を振り向かせてサッカー好きに仕向けていくのがお前たちコーチの仕事だろう」というお叱りを受けるかもしれません。確かに「全ての子どもは間違いなく 100%サッカーを好きになるはず」という根拠のないバラ色の理想に向けて指導者は鋭意、努力すべきでしょうし、実際にこれから先も努力をし続けます。

 しかし「サッカークラブ」の看板を掲げて「サッカー好き集まれ」としている活動の中で、どう見てもサッカーに興味がない子を「無理矢理にでも」振り向かせることに対して、サッカー好きの子どもに対してよりも多大なエネルギーを注入すべきなのか? 私たちはそこまでして強引にサッカー好きを増やさねばならない使命を持つのだろうか?という疑問が残ります。

 サッカーがあま好きには見えない子どもに「本当にサッカー楽しいの?」と胸の内を聞いたことはありません。しかし「別におもしろくないよ...」とキッバリ言われたとしたら、私たちサッカー指導者はどうしたらよいのでしょう。

  

メサイアコンプレックス?

 公営グラウンドで、自分たちの使用時間になったので入場し、設営の準備をしていると、選手たち(成人)がグラウンドの入口付近で誰かに何かを言われています。そのうち一人の選手が困惑した様子で私を呼び戻しました。

 行くと、選手たちの前で一人の男性が興奮しています。その人は「あなたですか、この人たちの指導をしているのは」と私に詰め寄ってきます。選手たちが一体どんな失礼をしたのかと身構えていると「この人たちは、入場するときに正しい入口を使わずに、フェンスを乗り越えた」と言います。

 

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 そのグラウンドは人工芝のピッチと観客席が1mほどのフェンスで区切られています。扉のついたピッチへの入口は全部で三カ所しかありません。その時は、入れ替え時間だったために、彼の指導するラグビー選手(中学生か、高校生と思われます)が出入口付近に大勢たむろしていて、すんなり入口を使用できない状態でした。だから当方の選手たちはスムーズにピッチインできるように、正規の出入り口を使わずに、1mほどのフェンスを乗り越えたというわけです。

 「ちゃんと入口があるのにフェンスを乗り越えるとは何事か!!!」「子供たちが見ているのに、どうしてくれる!!!」と彼は息巻きます。対応した私が「どうしてくれると言われてもね...」と困惑していると「謝れ、謝るべきでしょう」とさらに興奮します。

 「いやいや、まず落ち着いて下さい」となだめると、「あんたは誰だ、名前を名乗りなさい」と身を乗り出してきます。「私は間違ったことを言っていないから、正々堂々と名乗れますよ。あんたはどこの誰なんだ」と鬼刑事も顔負けの迫力で迫ってきます。

 浮気が発覚したタレントを追究する芸能レポーターと同じで、落ち度がある相手に「こちら側は正義である」ということが明確な時、人は遠慮会釈なく攻撃的になります。正義を振りかざして相手を追い込むことの興奮に酔いしれるのです。

 ああ芸能レポーターと同じケースだな、と感じた私は、「謝れ」と連呼する彼をなだめながら、「わかりました、彼らには次からは乗り越えないように、よーく言い聞かせておきますね」と笑顔で対応して何とか帰しました(笑)。

 このように倫理、道徳、社会正義を振りかざして他者を追究する心理の一つに、メサイア・コンプレックスというのがあるそうです。自分はメサイア、つまり救世主であるから、汚れた世間、堕落した世間にもの申して自分が正しく導いてやるのだ、という心理なのだそうです。

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 こうした心理に陥る人の裏には、欲求不満にまみれた自分、うだつのあがらない自分という影の部分があるのだそうです。現実世界で抑圧され、矮小な自分という心理を持つからこそ、誰もが「悪」とわかる事象を見つけては激しく糾弾して溜飲を下げるのだそうです。倫理、道徳の面で「よろしくない」という事象に関しては自分が100%「正義」の側に立てますし、周囲からの賛同も得られやすく、容易に他者に対して居丈高になれるのです。

「こどもたちの前で間違ったことをしたのだから謝れ」と興奮していた彼の様子を見ていた我がチームの大学生の選手が、ポツリといいました。「ああいう人って、カバンを綺麗に並べているチームは強いんだ、みたいなこというタイプなんだよな、生徒がかわいそう」

 さて、ルールとマナー、常識をタテに「フェンスを乗り越えたから謝れ」と興奮していた彼の生徒と父兄ですが...駐車場から競技場に通じる通路を完全に塞ぐ形でたむろしていました。通れないので「すみません」と声をかけたものの、ガヤガヤとお喋りに夢中で一向に気付いてくれません。「あの~」と声のトーンをあげてようやく通路を空けてくれました。「ここは通路だから大勢で塞いではマズイ」と気付いてくれたかと思いきや、私が通り過ぎると同じように道を塞いでガヤガヤ。人に文句を言う前に、まず、自分の身内のマナーを正しましょうね(笑)。

 それに、彼自身、規定の時間になってもグラウンドを立ち去らず、私たちの使用時間になっても一定時間、ガミガミと持論を展開し続けて活動を妨害したことも、使用時間に関するルール違反、ないしはマナー違反ですよね。私が彼と同じ口調、表情で「試合の準備を滞らせたことを謝れ、規定時間を超えてグラウンドに滞在した分だけ利用料を支払え」と言ったら、彼はどう反論するのでしょうね。

(写真はいずれもイメージです) 

 

 

 

 

真理を説くこととパワハラの間

 Jリーグ湘南の監督の言動、行動がパワハラではないかと問題視されています。激しい叱責、叱咤の度が過ぎて、一部の選手、スタッフが心理的な不調をきたすほどになっていると報道されています。

 身体的な暴力は論外として、スポーツ指導における言葉の激しさ、勢い、といったものにはとても難しい部分があります。暴言と指摘の境目はかなり曖昧です。

 もちろん、あらゆる事象に関して「怒鳴らねば通じないことなどない」ということは真理です。「それは違うよ」と落ち着いて話せば、全ては通じるはず、ということも、その通りだと思います。

 次のような状況を考えてみて下さい。

 サッカーでサイドからゴール正面に向けて絶好のクロスが入った時、中央に位置する選手がぼんやりと何事もなかったように見送ってしまい、ボールがゴール前を通り過ぎてが逆サイドのラインを割ってしまった、という状況。ゴール前にいた当人は悔しがるそぶりもなく平然としていたとします。

 得点の可能性が高い状況を察知できないこと、それを逃しても事の重大さに気付かないことは、サッカーをプレーする上で「あってはならない」というのが万国共通の真理です。なので「絶対にそれだけは覚えてほしい」という熱意を込めて「そこでボンヤリ見送ってはいけない!!!それはサッカーで一番大切なチャンスの一つではないか!!! 」と語気を強めて叱咤したら、パワハラになってしまうのでしょうか? 怒鳴られた子どもが「コーチにきつく言われて怖かった」と訴えたら、きっとコーチは有罪になるかもしれませんね。

 

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 ならば、試合後に「あのね、あの場面では絶対にシュートをしなければいけなかったんだよ。ゴール前で絶好のボールを見送るなんて、サッカーではあり得ないことなんだよ」と落ち着いて諭せば、当人は「そうか!!!わかった。次は絶対に気をつけよう」と強く心に刻んで貰えるのでしょうか? ...まぁ理論的にはきっとそういうことなんでしょうね。

 ところで、私が訪れたことのある国はたかだか10か国程度ですから、海外ではみな..などと話を広げてはいけないとは思いますが、私の見てきた限りで言うと、サッカーの強国の育成世代の試合で今、紹介したようなゴール前の場面があったとしたら、監督、コーチが怒鳴る前に、チームメイトが一斉に「何やってんだ!!!」「そこでシュートしないでいつするんだ!!!」とシュートチャンスを逃した選手を怒濤のように激しく罵倒します。

 そのようにお互いに「ここでは絶対にこうしなければならない」「これは絶対にやるべきではない」ということを、子どもの頃から厳しく律しあって切磋琢磨している様子がうかがえます。そのような過程を経て大人になるからこそ、細かい場面でも、時間が残り少なくても、絶対に妥協しない厳しいプレーができるようになるのだな、などと思ったりもします。少なくとも、プレーに関しては、サッカー強国では完全にパワハラと断言できる言動、行動が多いと感じます。

 実は、先ほど例に挙げたゴール前のシーン、実際に少年の試合で遭遇したのです。ボールがゴール前を横切るのをあっさりと見送り、反対サイドのラインを出ても、誰も何も言わず、全ての選手、関係者が淡々と試合を続けていたのです。絶好のチャンスを逃しているのに、チームメイトも、監督も、コーチも、一言も発せず、一切、態度も変えないというシーンを見て「どうして誰も何とも思わないの???」と気味悪さを感じたのです。

 叱る指導はいけない、非難せずに褒めて伸ばすことが肝要、という意識が徹底された結果なのでしょうか? 私だったら「そこは絶対にシュートしなければだめでしょ~!!!」と大声で指摘したと思います。

 指導者は、人格攻撃や、プレーに関係のない誹謗中傷は絶対にしてはいけません。しかし、プレーに関わる真理を説く上で、ある程度の強さを含んだ語調、語気といったものは必要ではないか、というのが私の考えです。「サッカーが上手くなりたい、良い選手になりたいと思うなら、それは絶対だよ」ということを強く心に刻んでもらうには、メッセージに一定のレベル以上のバワーが必要ではないかと思っています。

 そんな私ですから、この先、いつか「パワハラだ」と追究されてしまうかもしれませんね。強い言葉で指摘したい場面に遭遇したら、これからはパワハラにならないように「オー、マイ、ガーッ」と叫んで気絶することにしますかね(笑)。

 

 

 

理解力こそがAIに負けない力だ

 私がサッカーコーチを始めた約40年前に比べて、最近の子供たちは、とても聞き分けが良く、真面目だと感じます。ふざけたりせずに教えたことを指示内容を守って一生懸命やろうとする。

 しかしその一方で、直接、指示していない応用的なこと、自分で創意工夫すること、になると、とたんに混乱してしまう傾向もあります。

 家庭でも、学校でも、各種習い事の世界でも、特に学習産業の戦略に踊らされる中で、「君の追究すべき正しい答えはこれ」という、唯一正解追究主義に浸りきっているからではないか、と私は想像しています。

 Aという課題が出されたら答えは唯一Bと決まっていて、CやDはあり得ない、という思考回路になっている。だから、何か課題が示されたら唯一の正解Bだけを探す仕組みだけが頭の中で動く。応用的な思考の結果であるCやDについては、「Cや Dもあるよ」と敢えて「教えて」あげなければ自力の発想では発見できない。

 

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 他者(コーチや教師や講師)から何かパターン化されたことを「習い・覚える」ことにかけては、とても優秀であるけれども、新しいことを「見つけ出す」「創る」「改変する」などという領域になると、恐ろしいくらいに稚拙なのです。

 非常に極端な表現をするなら、今の子供たちは、血の通ったAIと向き合っている感じ。記憶の量は多く、ある事項を入力すれば、対応する出力が正しく示されるのですが、データに蓄積されていないものは一切、関知できない。ゼロか一かの積み重ねで計算する機械と同じなのです。

 ところでAIといえば、古くは2001年宇宙の旅のHALやターミネータースカイネットのように、膨大な情報を蓄積したAIがいずれ人類に反旗を翻すときがくるのではないか、という恐怖がSFで描かれてきました。しかし、AIの研究で有名な国立情報研究所教授の新井紀子氏は、AIがヒトの能力を凌駕する「シンギュラリティ」は絶対にない、と断言しています。

 新井教授はAIの限界の例として、AIに英語問題を説かせた場合の例をあげます。6つの▢の部分に下に示された6つの単語を正しく入れて文章を完成するという問題です。

 

 Maiko:DId you walk to Mary's house from here in this hot weather?

 Henry:Yes,I was very thirthty when I arrived. So ▢▢▢▢▢▢drink.

 

       asked、cold、for、I、something、to

 

 この問いに対してAIは以下のように▢を埋めて最後の一文を完成させました。

 

 So cold I asked for something to drink.

 

 この回答は文法的にはまったく間違いはありません。しかし「So cold 」つまり「余りに寒かったから」喉が渇いてメアリーの家に着いたときに何か冷たい飲み物をもらったんだ、という話は、私たちの常識で考えたらありえません。なので、人間なら、以下のように答えます。

 

 So I saked for something cold to drink.

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 AIは事前に3300万もの膨大な英文を記憶していて、その中から頻度として最もよく使用されてる語順を選び出したのだそうです。つまり、この単語が使われた場合、頻度としてはSo cold...という順で進む確率が高いと判断したというわけです。

  AIはデータ計算の結果を確率から出すだけで「意味」は理解できない。だから「意味」の理解こそが、AIが人間を凌げない領域であり、シンギュラリティがあり得ない理由だ、と新井教授はいいます。

 新井教授は、教育では「意味」の理解、つまり読解力、理解力の醸成に最大の注力をしなければならないと警告します。恐ろしいことに、それらの力は伸び悩み、低下の兆候があることが調査で明らかになっているのだそうです。

 スポーツを教えていても、確かにそれは実感するのです。私たち指導者は入力−出力の機械的反応を叩き込むのではなく、きちんと「意味」を理解させる指導をしなければなりません。

自分も移民でしょ

 トランプ大統領が、アメリカではない国にルーツを持つ議員の批判的な姿勢に腹を立て、「アメリカが気にくわないなら、アメリカを出て行って自分の国に戻ってうんぬん...」という、子どもの口喧嘩みたいな低次元のコメントを出したとか。

 

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 あのおじいさん、アメリカ、アメリカと連呼して、移民、移民と敵視しますけど、あのおじいさんの何代か前まで遡れば、トランプ一家も間違いなく移民だったわけです。というか、現在のアメリカ人のほとんどが移民の子孫です。200年か少し前の独立までは、やがて「アメリカ人」と称するようになる人たちは皆、イギリスとかアイルランドとかオランダとかドイツとかスペインとかから渡ってきた人たち、つまり移民だったわけです。

 今「アメリカ」と呼ばれるあの大陸に大昔から住んでいた正真正銘のアメリカ人とは、ネイティブアメリカンと称される人たち。

 

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 コロンブスを筆頭に、「ヨーロッパを出た人たちは大西洋を渡って新大陸にたどり着いて」....と歴史では習いましたが、「新大陸」なんてヨーロッパ人たちの勝手な解釈。ネイティブアメリカンにとって「新」などと言われる筋合いはなく、昔からずっとあった土地。

 ヨーロッパ人たちは、ひたすら西に向かって航海すれば、やがてインドにたどり着くはず...と勝手に思い込んで大西洋に出た。そしたら、太平洋に出る前に大きな大陸があって、上陸してそこがインドだと勝手に解釈した。だからそこに住んでいたネイティブたちをインド人=インディアンと呼び、未開の原始的で野蛮な者たちと決めつけて虐殺し、略奪し、ヨーロッパ流のライフスタイルを流入させることが「開拓」だと自画自賛したわけです。

 ネイティブアメリカンが住んでいた土地に勝手に進入して大量虐殺して「ここはアメリカ」と独立させた子孫の末裔がトランプ。あの老体が移民、移民、と叫び、マイノリティーを蔑む様を見ていると、つい「オマエも移民の子だろう!!、そもそもアメリカ自体が移民の国だろう!!!」と突っ込みたくなるわけです。

 

アジア枠ではなく実力で...

 久保がレアルヘ、阿部がバルサへ。一昔前の日本サッカー界では想像だにできなかったことが現実になっています。この若い二人の「可能性」がとても大きな事は認めた上で、視点を変えて考えねばならないことがあります。

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 今や欧州サッカービッグクラブの経営は、未開の商圏に触手を伸ばす巨大企業の覇権争いと似た様相を呈しています。TV視聴者、グッズ購入者のパイは、もう欧州では飽和状態です。放映権収入をさらに拡大させ、関連商品の売り上げを伸ばして市場拡大のオセロゲームを制したいビッグクラブにとって、ファン拡大の余地が大きく残されている人口の多いアジアは、とても魅力的な市場になっています。

 サッカー先進国ではないアジアの国からヤングヒーローを獲得すれば、その出身地では「我が国期待の星」の活躍が見たい有料TV契約者とレプリカシャツ購入者が飛躍的に伸びるはず...と目論まれています。

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 もちろん、実際に戦力になればそれに越したことはないし、仮にダメでも一定期間の「売り上げ」は確保できるというわけです。かつてD・ベッカムが巨額の移籍金でレアルに加入した際「そんなに巨額を投資して大丈夫か?」と聞かれたペレス会長は「23番のシャツの売り上げだけでモトはとれるさ」と言ったとか(笑)。

 もちろん、久保、阿部の両名とその関係者はその「メカニズム」を承知の上で挑戦するわけです。ただの「商圏拡大戦略」の手段として一定期間、使われて捨てられるのか、チームに定着してホンモノの戦力になれるのか?これまでの日本選手のビッククラブ移籍で、戦力として真の成功に至った例はほとんどないことが気かがりです。

 久保も阿部も「アジア商圏拡大」などという「ウラ事情」とは関係のないレベルで、実力を認められて真の「戦力」になってくれれば何よりです。