カネで買ったという意味では同じ事

 東京五輪招致に賄賂が使われたとの疑惑が持ち上がっています。
 五輪招致は世界各国のIOC委員の投票で決定されます。委員たちが候補地の施設、交通、宿泊施設、セキュリティーなどを精査して決める、というのはあくまで表向きの話。現実は「東京に投票してあげたら、何してくれるの?」というえげつない世界なのです。
 だから以前は、投票権を持つIOC委員に高価な贈り物は当たり前(サマランチIOC会長の家には倉庫に溢れるほどの贈呈品があったそうです)、「現地視察」と称して往復ファーストクラス航空券で招待して、飲めや歌えのパーティーに観光旅行、あげの果てには子女の留学費用負担とか、ペットの不妊治療とか、歓待の限りを尽くして「ぜひ我が都市に一票を」とやっていたわけです。
 それが「行きすぎだ」と批判されてからは、委員の候補地視察は禁止されました。となると、今度は水面下の活動が激しくなるわけです。
 「私はIOC委員委である彼の知り合いだ。私が彼に東京に投票するように説得しましょう」という輩がでてくる。それを「コンサルタント」として仕事にするわけです。「知り合いの彼」の数が多いほどコンサルタント料は高額になる。
 東京はそれを陸上競技を通じて人脈が多いパパマッサラ氏なる人に「コンサルタント」としてお願いしたわけです。それが正式な業務委託なのか、裏で話を通してもらうための賄賂なのか、法的な判断が取り沙汰されていますが、バカバカしい議論だと思っています。
 カネで「東京」という票を何票も買った、という意味では同じ事だからです。
 そもそも東京は、災害からの復興、コンパクトな規模、抑制された予算みたいな謳い文句で招致を勝ち取ったということになっていますが、いざ招致を勝ち取ってしまえば、そんなことすっかり「なかったこと」のようになっています。
 五輪予算はべらぼうに膨らみ、最初に「これでやります」と世界に提示した額とは比べものにならない大きさに膨らんでいます。コンパクトなはずだった会場は、あちこちに飛ぶことになりました。災害地の復興は、建設業者の不足で遅れに遅れています。家を直そうにも、壊れた施設を修復しようにも、業者が揃って五輪、五輪と東京に集中してしまうからです。五輪が災害復興を遅らせているのです。
 「招致を勝ち取ってしまえばこっちのもの」とばかりに、招致理由など蹴飛ばしているかような東京五輪。そもそもカネで票集めをした結果なのですから、最初から恥も外聞もない出来事なのです。
 コンサルタント料とかの費用も含めて、五輪にかけるお金でどれだけ保育園や老人施設が建てられ、学校や病院が充実し、道路、橋、トンネルなどの老朽化が修復できるのか。たった一ヶ月間バカ騒ぎするだけに巨額の費用を使うのは、あまりにアホらしくないですか?
 
 
 

仲間がいたからこそ

 レスリングの吉田沙保里さんが引退会見で「一番、印象に残っているのは決勝で敗れたリオ五輪の銀メダル」と語っていました。
 数え切れないほど世界一になっている人が、負けた時の銀メダルが最も印象的だった理由は「負けた人の気持ちとはこういうものなのだな」と改めて気付かされたことと「私に負けた人が試合で相手になってくれていたからこそ、私も勝てる喜びを味わってきたのだと再認識したから」と語っていました。
 素晴らしいですね。よくぞ言ってくれたと思いました。
 リオ五輪決勝の負けは僅差の判定。まだまだやれる。東京五輪でもう一花。そんな声が投げかけられていました。周囲は、勝てば「次もまた」と言い、次に勝てば「~連勝目指して」と言い、さらに勝ち進めば「前人未踏の記録目指して」と言い、それを達成すれば「次の新たな目標は何」と迫り来る。「~までは頑張ってほしい」などと、勝手に期限を設定する。「ほどほどでいいよ」とは絶対に言ってくれません。
 思えば、資本主義の世界とは「右肩上がり」が当然の世界。一つ仕事がうまく行けば支店を設けて出荷を増やし、新製品を開発しては新しい需要を喚起し、さらに業務を拡大して従業員を増やし、社屋を大きくしていく。そこには「ここまででよし」という終わりはありません。果てしなく「右肩上がり」でいることが使命になってしまっている。
 しかし、世の中のあらゆることには「パイ」つまり限度があって、誰もが同様に無限に拡大して果実を得ることできません。威勢のいい「右肩上がり」がある一方で、同数以上に拡大に失敗して消えていく者があるわけです。つまり、何かを、誰かを、冷徹に踏み台にして、のし上がっていくことが資本主義経済の「右肩上がり」という現象。
 そういう資本主義経済的現象に飲み込まれているからか、人々は何事も次、次、次、と要求して右上に向かって上がっていくことが当たり前のように思っている。だから吉田さんが引退すると言うと「まだできるのに惜しい。東京五輪までがんばってほしかったのに残念」となる。行けるところまで行け、使えるものは、すり切れるまで使い切れ、という発想でしょうか。「もう、このあたりでいいよ」とは、なかなかなりません。
 そんな愚かな私たちに対して、吉田さんは「自分はもうここで十分」と宣言し「競い合う相手あってこそのスポーツ」という原点を再確認させてくれました。
 さて、私が指導していいる小学生。次の大会はベンチ入りの人数が限られ、メンバー全員がベンチ入りできません。リーグ形式なら、いつものように二チームに分けて代わりばんこに出場させられるのですが、その大会はノックアウト形式なので負けたら終わり。リーグ戦のように「二試合目に出場」と想定された子は、一試合目でチームが負ければ出られなくなってしまいます。
 どう考えても確実に全員を出すことはできません。やむを得ず、試合には選抜された子どもたちだけを連れて行くことにしました。自分の指導理念には大きく反することで、非常に心苦しい決断です。
 選抜された子たちには、メンバーに選ばれた優越感を持つのではなく、いつも一緒に練習してくれている仲間のことを思って試合に臨むよう言い聞かせねばなりません。パスを出してくれる人がいるから自分のシュート練習ができる、紅白戦の人数が揃っているから自分の試合形式の練習ができる。自分の上達には常に、仲間の恩恵があるのだということを忘れずに戦ってほしいです。

冷静に分析するということ

 昨年末に行われたクラブW杯。
 一昨年の大会でレアルに食い下がった鹿島アントラーズは「今年こそレアルを倒す」という意気込みで臨みましたが、今度は1-3で完膚なきまでの完敗。3位決定戦でも南米代表のリーベルプレートに0-4の大敗を喫しました。
 この差、現実です。一度の善戦で「行けるかも」と期待を持つことは仕方がないとは思いますが、同時に冷静な分析、見極めも必要です。欧州や南米の強豪が、気を抜かずに本気で「勝ちにきた」場合、日本サッカーの実力ではまだまだ太刀打ち出来ないのが現実です。「世界に近づいた」などと自分勝手な楽観論は軽々に語るべきではないでしょう。
 さて、「日本大健闘」と誰もが思っている2018ロシアW杯ですが、果たしてそうだったでしょうか?
 日本代表は4試合して1勝2敗1分け。たった一つの勝利しか挙げることができず、しかもその1勝は開始早々に10人になった相手(コロンビア)に対して...と見ていくと、決して良い結果とは言えません。
 決勝トーナメント進出を賭けた大一番、「勝てば望みが叶う」というポーランド戦では、あっさり先制点を奪われて0-1の負け。途中から「敢えて」敗戦を選択し、ルールの条項を利用して決勝トーナメントに進めはしましたが、真価が試される勝負を自力で制することができなかったことは事実です。
 決勝トーナメント進出の結果はあくまで幸運な巡り合わせに過ぎず、世界の壁を実力でこじ開ける、という域には達してはいないわけです。
 2-3と惜敗だったベルギー戦の結果が「果敢な討ち死に」というイメージを残したために、「世界と戦えた」という勘違いを生む要因になっているのかもしれません。しかし、過去、優勝候補をあと一歩というところまで追い詰めた、などという試合は腐るほどありますし、優勝チームをグループリーグの段階では破っている、などという試合すらもあるわけです。
 私たちはベルギー戦よりも、既に決勝トーナメント進出の望みが絶たれて日本戦が「消化試合」だったポーランドに勝ち切れなかった、という現実の方を重く受け止めねばなりません。4試合でたった1勝しかできず、勝負のかかった試合を0-1で落としている、という事実をどう分析するのか...そこに日本サッカーの今後がかかっています。
 「見たいこと」ばかりを見て、「見たくないこと」を避けていては進歩はありません。

スポーツ大賞

 慌ただしくしているうちに年が明けてしまいました。一日遅れなんですが(笑)、独断と偏見で選ぶ永井洋一の2018年スポーツ大賞を発表します。
 受賞者は元バレーボール選手の益子直美さんです!!!
 受賞理由は、ご自身が主宰する少年少女を対象とした大会で「監督、コーチが叱ってはいけない」という趣旨を徹底させていることです。
 人前だけでなく、ベンチに帰ってから叱られなかったかどうかを、益子さんご本人が子どもたちに聞いて回ったりもするそうで、楽しい雰囲気の中、指導者からの高圧的な指示、つまり外的圧力で動くのではなく、自主性を持って動く子を育てようという意図がそこにはあります。
 益子さんはかつて日本リーグイトーヨーカドーの選手として大活躍し、日本代表にも選ばれています。女子バレー界に根性と理不尽なハードトレーニング、バワハラ、セクハラが当然のこととしてまかり通っていた時代、当時のイトーヨーカドーを率いた坂上一雄さんという監督が理論的裏付け、合理的な練習、選手と対等に対話し主体性を重視するする指導を推進させて優勝を勝ち取りました。
 チームは、益子さんをはじめ、斎藤真由美さんら美女軍団としても話題をさらっていました。当時の女子バレー選手と言えばザン切り頭に化粧気のかけらもない顔、女性としての魅力などとうの昔に捨てました(笑)...みたいな方ばかりだったのに、ヨーカドーの選手は皆、綺麗でした(こうした切り口で女性アスリートを評価することは今や一種のセクハラかもしれませんが、そのあたりはお許し下さい)。
 雑誌の取材で訪れた際、ヨーカドーの選手たちは「監督からは、選手である前に一人の女性として社会に出ても恥ずかしくないようしっかり身なりを整えなさい、と言われています」と語っていました。さらには「私たちはヨーカドーという会社の宣伝役も担っています。TVで自分たちが映し出されたときに、女性としてなりふり構わない様子でいたら、会社のイメーシも悪くなりますから、可能な限り良いイメージを保つ努力は必要と思っています」とも語っていました。
 そうしたヨーカドー時手代の論理的、科学的裏付けと主体性を重視する指導、さらには一人の女性としての社会的立場を重視する環境が、引退後もずっと女性として美しく、また、子供たちが主体性を持ってバレーに取り組むための活動を推進する今の益子さんを創り上げているのだと思います。

「子どもと話し合いの結果」はジミントーの強行採決と似たり寄ったり

 忙しさにかまけて一ヶ月以上、ご無沙汰してしまいました。いろいろとお伝えしたいことはたまっている(笑)のですが、まずはこの話題から。
 いつのころからか「親子でじっくり話し合った結果」というフレーズをよく聞かされるようになりました。クラブからの退団とか、受験とか、子どもの今後の行動が決められる時に親から発せられる「決め文句」です。
 そのフレーズを発する親は、決して高圧的に自分の意思を子どもに押しつけてはいない、という体で、いかにも「子どもの意思を最大限、くみ上げた上での結論です」という言い方をします。そして「本人も望んでいることなので」と結論づけます。
 こうした「お決まり」のフレーズを聞く度に、私は心の中で「ウソつき!!」と(笑)と叫んでしまいます。なぜなら、そもそも40歳を過ぎた大の大人と10歳かそこらの子どもとの間に、本当の意味で「対等な」話し合いなど存在しないからです。
 確かに親は子どもに「あなたはどう思うの?」と意見を言わせる機会は設けることでしょう。しかし、そこで子どもが親の意図に反する、あるいは親の想定外の答えを返して来た場合に、「ああそうなんだ、わかったよ」と子どもの意思を受け入れることなど絶対にあり得ないのです。
 親には40年以上の人生経験があります。子どもがどのような「意思」を表明したとしても、「なるほどね...でもね..」とか「確かにそうだけど.、それでも...」とか、いくらでも子どもの意思を親の考える方向にいいくるめてしまう知恵を持っています。そもそも子どもの言い出すことくらい、全部予想できていますから、それをどう誘導するかの作戦は事前に成立しているのです。「受験は嫌だ、塾なんか行きたくない」という子どもの意思は、どう転んでも100%押しつぶされる運命にあるのです(笑)。
 国会で「十分審議は尽くした』として強行採決するのが常套手段の人たちがいるじゃないですか。あれと似ていますよね。話し合いなんて「しました」というアリバイをつくるための儀式みたいなもので、先に結論が決まっている。
 「いや、そんなことはない。本当に子どもが望んで同意したことなのだ」と反論する親もいるでしょう。そういう親は、「話し合い」の場で一時的に誘導したのではなく、日頃から時間をかけて「洗脳」しているだけの話で、違うのは時間的な流れだけです。「受験していい学校に入れねば将来、大変なことになるぞ」と普段から言い続けていれば、子どもは自然にその気になっていく、といういうわけです。時期がきて「さあ、いよいよだぞ」と言えば、子どもも「わかったよ」となるわけです。
 「子どもと話し合った結果、子どももそう言うので決めたことです」と、いかにも物わかりのいい親のフリをして、「決定は子どもがしたこと」と子どもに責任をなすりつけるようなことをしている親の子どもは哀れです。むしろ「ウチはそういう教育方針ですから、子どもが何と言おうと私の思うようにしていきます」と堂々と宣言して、子育ての全責任は自分が負う覚悟だとする親の方が、かえって大人として潔いですね。

不寛容社会とニッボンサッカーの弱点

 サッカーの試合でグラウンドを利用する際、次の時間に使用するチーム責任者がグラウンド使用中のチーム責任者にお願いをして、「利用中のチームに迷惑をかけない」という“常識的共通理解”のもと、グラウンドの隅でウォーミングアップさせてもらうことが慣行となっています。
 ところが、先日あるグラウンドでそのお願いをしようとすると「それは禁止になった」とのこと。最近、使用中のチームの「厚意」で時間前の入場とウォーミングアップを許されたというのに、度が過ぎた使い方をしてしまったチームがあったとのこと。それが原因で施設側は「許可時間前の入場は一切禁止」という厳しい線引きをしたとのことでした。
 人の厚意で「使わせてもらっている」ということを忘れ、使用中のチームに迷惑をかけたバカ者がいることは困ったことですが、それにしても、その一件で即「一切、禁止」という堅苦しい決断に至ってしまうことには、息苦しさを感じます。
 厚意で時間前の入場を許した側からすれば「おい、話が違うぞ。いくらなんでも、そこまでやっていいとは言ってはいないぞ」と腹立たしくなる気持ちは十分理解できます。しかし、だからといって即、施設側に「あのチームに酷い目にあった」と切れて訴え出るのではなく、当事者に対して「それは勘弁してよ」と柔らかに指摘できないものでしょうか? そうすれば相手も「あ、すいません、ついやりすぎました」と反省して、それ以降は、常識的な利用の仕方にとどまったのではないでしょうか。
 施設側も「せっかくご厚意で使わせて貰っているのですから、わきまえて動いてくださいね。次からは気をつけるようお願いします」と釘を刺す程度にとどめておけば、万事、穏便に済んで、利用時間前のウォーミングアップ使用も、これまのでどおり続いていたはずです。
 このように、何か事があった時、穏やかに話をして「次からは気をつけてね」と言えば済むことなのに、すぐに切れたり怒ったりして「しかるべきところ」に訴え出るという人が増えています。そして、その「しかるべきところ」も即、禁止、処分!!!と厳格化してしまい、その「決まり」を巡って関係する人たちが監視の目を光らせてギスギスするということが多くなりましたね。
 これ、若者たちの弱点として巷間、言われ続けている「コミュニケーション能力の劣化」が大人の中にも十分に蔓延しているということじゃないですかね。
 少しの行き違いがあったとしても、まずは話し合ったり説得したりして合理的な「着地点」を見つけ出す作業をすればいいわけです。お互いに自分の主張を押し通すだけでなく、少しだけ譲ったり、許したりすれば、万事、丸く収まることが期待できます。そうなれば次もまた「譲り合う」「お互い様」という、両者にとってメリットになる状況が続いていく。
 しかし、そういう状況に応じた「微調整」をすることを避ける。堅い「決め事」を設定し一括して縛り合うことを選ぼうとします。一々、状況ごとに対応するのは面倒だから、もう一つに決めてしまえという心理、一つの型の中に自らはカッチリまって安心しようとする心理、これって一種の思考停止ですよね。サッカーで相手がどう出てこようが「自分たちの戦い方」をするしかしない、と言っているのと同じ。
 全体を俯瞰したり、ものごとの本質を踏まえたりすれば、いくらでも「賢く合理的」な解決方法があるのに、それをしようとせず、ひたすら「決まり事」で統一しようとする。こんな大人が闊歩しているようでは、臨機応変の対応力がモノを言うスポーツの能力が向上するわけないですよね。特に国際試合で「決まったこと」しかできない恥ずかしい日本人を生み出すだけです。

自己責任

 シリアで拘束されていた安田純平さんが救出されたことで「自己責任論」が取り沙汰されているようです。この手の事件が起きると必ず持ち上がる話です。
 自分で好き勝手に危険地域に入って行って過激派に拘束されたのだから、政府の世話になって国費で救出されるのはいかがなものか、ということです。
 そのように声高に糾弾にしている人は、自分が病気になった場合、医療費のうち健康保険でまかなわれる分の援助は辞退して、全額自費で支払うんですよね。だって病気は自分の健康管理が悪いこと、つまり自己責任の結果なのに、他人のお金も含めて運用されている保険を使うのはおかしいですよね。
 また、そういう人は交通事故にあった場合、前方不注意とか速度超過とか、少しでも自分に落ち度があった場合は当然、救急車なんか呼べませんよね、自己責任なんだから公費で運行している救急車の助けなどは受けられないはずです。
 さらには、そういう人は災害が起きても、広域避難場所とか、体育館には行かないんでしょうね。だって災害の多い日本なのだから、普段からちゃんと備えをしていない方がいけないのだから。その自己責任を置き去りにして「公」の施設に甘えるなんておかしいということになりますよね。
 もしかしてアベ政権が戦争を始めたとしたら、そういう人は自分で武装して戦うんでしょうね。日米安保条約が結ばれていることを承知で日本に住むことも自己責任ですから。あの人格者ばかりが集まる立派なセイフ(笑)に「守ってよ」というのは虫が良すぎますよね。
 自分がやることは全部自分で始末をつけろ、公金や公的機関には自己都合で甘えるな、という人は、きっと国道、県道、市道を歩いたりする時も、自分が税金を払っている分だけキッチリと使わせて貰うんでしょうね。だって自分が支払っている税金は微々たる額なのに、使う時はちゃっかり全部自由に使うなんて、自己責任論者としたら恥ずかしくてできないでしょう。
 いずれにせよ、一度たりとも自己都合で公金や公的制度のお世話になったことのない人だけが、他者に向かって自己責任論を堂々と降りがかざすことができるはずです。