仲間がいたからこそ

 レスリングの吉田沙保里さんが引退会見で「一番、印象に残っているのは決勝で敗れたリオ五輪の銀メダル」と語っていました。
 数え切れないほど世界一になっている人が、負けた時の銀メダルが最も印象的だった理由は「負けた人の気持ちとはこういうものなのだな」と改めて気付かされたことと「私に負けた人が試合で相手になってくれていたからこそ、私も勝てる喜びを味わってきたのだと再認識したから」と語っていました。
 素晴らしいですね。よくぞ言ってくれたと思いました。
 リオ五輪決勝の負けは僅差の判定。まだまだやれる。東京五輪でもう一花。そんな声が投げかけられていました。周囲は、勝てば「次もまた」と言い、次に勝てば「~連勝目指して」と言い、さらに勝ち進めば「前人未踏の記録目指して」と言い、それを達成すれば「次の新たな目標は何」と迫り来る。「~までは頑張ってほしい」などと、勝手に期限を設定する。「ほどほどでいいよ」とは絶対に言ってくれません。
 思えば、資本主義の世界とは「右肩上がり」が当然の世界。一つ仕事がうまく行けば支店を設けて出荷を増やし、新製品を開発しては新しい需要を喚起し、さらに業務を拡大して従業員を増やし、社屋を大きくしていく。そこには「ここまででよし」という終わりはありません。果てしなく「右肩上がり」でいることが使命になってしまっている。
 しかし、世の中のあらゆることには「パイ」つまり限度があって、誰もが同様に無限に拡大して果実を得ることできません。威勢のいい「右肩上がり」がある一方で、同数以上に拡大に失敗して消えていく者があるわけです。つまり、何かを、誰かを、冷徹に踏み台にして、のし上がっていくことが資本主義経済の「右肩上がり」という現象。
 そういう資本主義経済的現象に飲み込まれているからか、人々は何事も次、次、次、と要求して右上に向かって上がっていくことが当たり前のように思っている。だから吉田さんが引退すると言うと「まだできるのに惜しい。東京五輪までがんばってほしかったのに残念」となる。行けるところまで行け、使えるものは、すり切れるまで使い切れ、という発想でしょうか。「もう、このあたりでいいよ」とは、なかなかなりません。
 そんな愚かな私たちに対して、吉田さんは「自分はもうここで十分」と宣言し「競い合う相手あってこそのスポーツ」という原点を再確認させてくれました。
 さて、私が指導していいる小学生。次の大会はベンチ入りの人数が限られ、メンバー全員がベンチ入りできません。リーグ形式なら、いつものように二チームに分けて代わりばんこに出場させられるのですが、その大会はノックアウト形式なので負けたら終わり。リーグ戦のように「二試合目に出場」と想定された子は、一試合目でチームが負ければ出られなくなってしまいます。
 どう考えても確実に全員を出すことはできません。やむを得ず、試合には選抜された子どもたちだけを連れて行くことにしました。自分の指導理念には大きく反することで、非常に心苦しい決断です。
 選抜された子たちには、メンバーに選ばれた優越感を持つのではなく、いつも一緒に練習してくれている仲間のことを思って試合に臨むよう言い聞かせねばなりません。パスを出してくれる人がいるから自分のシュート練習ができる、紅白戦の人数が揃っているから自分の試合形式の練習ができる。自分の上達には常に、仲間の恩恵があるのだということを忘れずに戦ってほしいです。