不寛容社会とニッボンサッカーの弱点

 サッカーの試合でグラウンドを利用する際、次の時間に使用するチーム責任者がグラウンド使用中のチーム責任者にお願いをして、「利用中のチームに迷惑をかけない」という“常識的共通理解”のもと、グラウンドの隅でウォーミングアップさせてもらうことが慣行となっています。
 ところが、先日あるグラウンドでそのお願いをしようとすると「それは禁止になった」とのこと。最近、使用中のチームの「厚意」で時間前の入場とウォーミングアップを許されたというのに、度が過ぎた使い方をしてしまったチームがあったとのこと。それが原因で施設側は「許可時間前の入場は一切禁止」という厳しい線引きをしたとのことでした。
 人の厚意で「使わせてもらっている」ということを忘れ、使用中のチームに迷惑をかけたバカ者がいることは困ったことですが、それにしても、その一件で即「一切、禁止」という堅苦しい決断に至ってしまうことには、息苦しさを感じます。
 厚意で時間前の入場を許した側からすれば「おい、話が違うぞ。いくらなんでも、そこまでやっていいとは言ってはいないぞ」と腹立たしくなる気持ちは十分理解できます。しかし、だからといって即、施設側に「あのチームに酷い目にあった」と切れて訴え出るのではなく、当事者に対して「それは勘弁してよ」と柔らかに指摘できないものでしょうか? そうすれば相手も「あ、すいません、ついやりすぎました」と反省して、それ以降は、常識的な利用の仕方にとどまったのではないでしょうか。
 施設側も「せっかくご厚意で使わせて貰っているのですから、わきまえて動いてくださいね。次からは気をつけるようお願いします」と釘を刺す程度にとどめておけば、万事、穏便に済んで、利用時間前のウォーミングアップ使用も、これまのでどおり続いていたはずです。
 このように、何か事があった時、穏やかに話をして「次からは気をつけてね」と言えば済むことなのに、すぐに切れたり怒ったりして「しかるべきところ」に訴え出るという人が増えています。そして、その「しかるべきところ」も即、禁止、処分!!!と厳格化してしまい、その「決まり」を巡って関係する人たちが監視の目を光らせてギスギスするということが多くなりましたね。
 これ、若者たちの弱点として巷間、言われ続けている「コミュニケーション能力の劣化」が大人の中にも十分に蔓延しているということじゃないですかね。
 少しの行き違いがあったとしても、まずは話し合ったり説得したりして合理的な「着地点」を見つけ出す作業をすればいいわけです。お互いに自分の主張を押し通すだけでなく、少しだけ譲ったり、許したりすれば、万事、丸く収まることが期待できます。そうなれば次もまた「譲り合う」「お互い様」という、両者にとってメリットになる状況が続いていく。
 しかし、そういう状況に応じた「微調整」をすることを避ける。堅い「決め事」を設定し一括して縛り合うことを選ぼうとします。一々、状況ごとに対応するのは面倒だから、もう一つに決めてしまえという心理、一つの型の中に自らはカッチリまって安心しようとする心理、これって一種の思考停止ですよね。サッカーで相手がどう出てこようが「自分たちの戦い方」をするしかしない、と言っているのと同じ。
 全体を俯瞰したり、ものごとの本質を踏まえたりすれば、いくらでも「賢く合理的」な解決方法があるのに、それをしようとせず、ひたすら「決まり事」で統一しようとする。こんな大人が闊歩しているようでは、臨機応変の対応力がモノを言うスポーツの能力が向上するわけないですよね。特に国際試合で「決まったこと」しかできない恥ずかしい日本人を生み出すだけです。