アスリート不祥事の紺本的な原因

 バドミントンのトップ選手二名が違法な賭博の常習者だったことが発覚、世界ランク2位の桃田選手の五輪出場が見送られる見通しになりました。
 野球の件も含めて、トップアスリートが社会の顰蹙を買うような事案が出るたびに、彼らの社会性の欠如が取り沙汰されます。少年の頃から勝利至上主義にどっぷりと浸かり「勝てば官軍」の精神が骨の髄まで染みこんでいて、勝てばいい、強ければいい、結果を出した者が幅をきかせる、という心理が形成された結果、いわゆる「天狗になる」「調子に乗る」といった軽率な行動が取られるのです。
 そうした事態を予防するために...ということで、少年スボーツでは勝利よりも礼儀、忍耐、協調性など人間性を高めることを重視した指導を、というステレオタイプのコメント、評論が出されます。
 かくして少年も中学生も高校生も、ほとんど意味のないような「礼」をあちこちにペコペコと何度もする風景が日本中で見られます。「自分よりもチームのために」などという優等生の発言を小学生でもします。表層だけを見ると、日本のスポーツ少年たちは間違いなく世界一礼儀正しく、世界一指導者の言うことを遵守し、世界一自分よりもチームのことを優先させているはずです。人間教育が徹底されているから、と思われています。
 そんなに優等生の少年ばかりの日本のスボーツ界なのに、なぜ彼らがやがてトップ選手になると常識のタガが外れ「少し冷静になって考えればわかるはずなのに」と言いたくなるような幼稚な行動をとってしまうのでしょう。
 それは、礼儀とか、規律の遵守だとか、協調だとか、スポーツ技能以外の人間形成に大切な要素すらも、「監督に言われたからやっている」ことであり、少年自らが「大切なことだから」と心の底から感じて実践しているのではないからではないか、と私は感じています。
 「監督に言われたから」と実践していることは、言い換えれば、小言を言う監督がいない場所では効力がなくなります。普段は深々と腰を折り、必要以上に長く頭を垂れるような礼ができる高校生の選手たちが、その一方で万引き、飲酒、喫煙、暴力、いじめをいつまでたっても根絶することができないのは、彼らのやることなすこと全てが「言われて」やっていることだから、言い換えると強制されて守っていることだからであり、監視する人がいなくなると効力がなくなる脆い概念だからなのではないでしょうか。
 何でも指導者の言われたとおり、常に監視者の顔色をうかがいながら、という行動バターンは、表層的には整然と規律あるすがすがしいものに見えます。技能以外の人間性が高く養われているかのように見えます。しかしそれは一皮はがせば、動物の調教と同じで、エサとムチがあってこそのもの、ということも少なくないのではないでしょうか。
 アスリートがあるレベル以上の技量に達すると、多かれ少なかれ唯我独尊になりがちです。そして、良い結果を出し続けていると、周囲は持ち上げる人ばかりになり、苦言を呈する人がいなくなります。「叱られる」人がいなくなれば、あとはムチで打たれない調教動物と同じで、思うがまま、好き勝手をするだけになるのです。
 少年時代から「自分のアタマで考える」という習慣をつけさせてもらえず、勝利至上主義の中、強権の指導者に技能から礼儀まで全て「強制」されたものに従って育った選手の行く末は、考える、判断する、省みる、という能力が極めて乏しい成人になってしまう恐れがあるのです。
 国の支援を受けて日の丸をつけて、世界ランク2位になって、メディアで注目されて、そういう立場でそんなことしたらどうなるかわからないのか...?と常識のある人は言います。しかし、わからなかったのでしょう。「そんなことしたらダメだろう」と叱る人がいなかったので、自分自身だけでは冷静に判断できなかったのでしょう。