何と日本的な....

 ロンドン五輪ラソン代表が決定しました。
 日本のマラソン代表の選考方法については、かねてからさまざまな問題が指摘されています。アメリカなどははっきりしていて一発選考。この競技会の勝者が代表ですと、誰の目から見ても文句なしの形で決まります。しかし日本の場合、さまざまな要素を検討し総合的に判断して...と実に曖昧 

 どうやら開催地の地形とか、気候とか、海外での勝負強さだとか、過去の実績とか、それこそ「いろいろいな要素」を勘案するというのですが、それが不明瞭な選考と批判される原因にもなっています。古くは、ロス五輪の選考で、瀬古選手をどうしていも選考したいのでは、と疑惑をもたれるような配慮もありました。
 このマラソンの代表選考、何だか横綱大関の選考にも似ていますね。西欧のスポーツのようにチャンピオンを倒せば新しいチャンビオン、という形ではなく、その時、勢いがあって調子の良い力士を、その地位に相応しいか否か、老人たちが議論して決める。時には強くても品格がないとして見送られることもある。
 なに事にも絶対的基準、あるいは真理というものを置いて議論するのではなく、相対的な雰囲気、場の空気、のようなものがリードして物事が決まっていく日本社会の縮図かもしれません。
 先日も、学校のある施設を使う使わないの会議で、似たような「空気」を感じました。事前に「使わせてもらいたい」と強く確認し合っていた人が、話の流れで「使わなくてもいい」という人たちの声が大きくなると、いつのまにか立場を変えて「使わなくてもいい」派に組みし「私は自己主張を通さない、いい人です」という涼しい顔をしている。究極のアンチKYですね。人間関係の「潮目」を読むことにかけては天才的だとものすごく感心しました。
 そんな人々からなっている社会ですから、何だかよくわからない話が何となく進んでいつのまにか決まっていて、周囲もそのよくわからない決定事項に「異議を唱えて睨まれるのが嫌だから」と諦めて大人しく従う、というスタイルは、ずつと続くのかもしれません。
 大人の社会でもまれる、ということはこういうことなのかもしれませんね。