哲学の違いです

 前回、「その差は何なんだ!!!」と問いかけましたが、答えはわかっているのです。人生というものに対する哲学の違いです。
 日本の場合、仕事をして生活を成り立たせ、社会的役割を果たせば、後は後は食べて暮らせればいいという考え。余暇で遊ぶことや気晴らしをすることは、あくまで余裕があるときの「おまけ」というような考え。生産活動、経済活動に寄与せず、利益を生み出さない余暇や遊びなど、二の次、三の次、という考え。全ては経済効率のために集約していくのだという考え。
 だからスポーツのグラウンドも「スポーツそのものができればいいんでしょう」という惨め極まりない設計。運動する土の広場があって、ぬるい水の出る蛇口が2~3個ついていれば十分でしょう、という考え。貧困極まりない哲学。
 一方イングランドを始めとする他の先進諸国は、仕事をして生活とを成り立たせ、社会的な役割を果たしたら、その疲れを癒し、緊張をほぐし、人生を楽しむ余暇活動も同じくらい大切と考える。緊張と弛緩、義務と権利、プラスとマイナスはセットで成り立っていると考える。

だからスポーツでも「着替える場所」があり「汗を流すシャワー」があり「見物する席」があり「対戦後に仲間や相手と歓談する場所」があるのが当たり前(写真はトッテナムホッツパーの本拠地・ホワイトハートレーンに隣接するバブです。訪れた日は休業でした)と考える。それらが全てセットになってはじめてスポーツのある生活というものが成立すると考える。町作りも同じ、ただ住めればいいのではなく、建物、道路、緑の木々、公園などがセットになって町ができると考えるから、キチキチと建物ばかり狭い土地に詰め込むことはしない。
 何を「必要」と考え何を「無駄」と考えるか、このあたりの哲学の違いは大きいですね。横浜は400万人近い人口を抱える巨大都市でも、緑の公園に渋滞覚悟でなくてはいけないのですから。スポーツセンターも十いくつしかないのですから。グラウンドの数にいたっては、過去W杯決勝戦開催都市の中で圧倒的に、ダントツに、他を大きく引き離して、独走状態で少ないでしょう。我々のナイター練習が未だ再開できないのは、「スポーツごときに電力などもってのほか」という考えがあるからでしょうね。