国母選手問題のその後(メディアの姿勢)

 服装やメディアへの受け答えで騒動を起こした国母選手に対して、一時、擁護論的な報道が相次ぎました。それらには主に二つの流れがありました。一つは、難病に苦しむ友人への募金活動などに奔走した国母選手を取り上げ「ああいう態度を示したけれど、実はいいやつなんです」という報道。もう一つは、「みんな騒ぎすぎだ、一斉にバッシングする傾向が怖い、若者の脱線として多少は大目に見ようではないか」という報道です。
 報道には多角的視点が必要ですから、情報が一色に塗りつぶされるだけでなく、こうした別角度からの切り口も必要かもしれません。しかし、何か違和感を覚えました。
 まず、国母選手が「本当は友だち思いのいいやつ」であることと、国費で派遣される五輪選手としての立ち居振る舞いが不適切であったこととは、話の次元がまったく異なり、かみ合いません。彼の「別の顔」を伝えたいということでしょうし、私もそう認識しましたが、それが彼の起こした騒動とどう関係するのか、それをきちんと整理しているメディアは皆無です。
 次に、「騒ぎすぎだ」とクギを指すメディアの多くは、自らが数日前まで厳しい論調で国母選手を糾弾していた張本人です。自分から煽るだけ煽っておきながら、世論が盛り上がると「それはおかしい」と言って一人だけ客観視できる高みに立っているような口ぶりになるのは、いかがなものかと思いました。
 こうした二種類の国母選手擁護論は、彼の実戦が近づくとともに、次々に増えました。うがった見方かもしれませんが、国母選手がメダル獲得などということになれば、当然、格好の取材対象となります。その時に、快く取材を受けてもらうためには、数日前までのように「けしからん」と叩き続けていたのではまずいと判断したのではないでしょうか。「実はウチは前から君に好意的な姿勢だったのですよ」という予防線を張っておき、国母選手を捕まえやすい状態をつくっていたのではないでしょうか。
 国母選手以前にも、既製の習慣、儀礼、価値観などを覆す行動、言動をとるアスリートは存在し、その度にメディアは彼らを「国際派」「プロ意識の固まり」のように持ち上げてきました。一部には、まるで無礼で独断的あることこそが国際感覚を持った逞しい競技者の証明であるかのような論説もありました。
しかし、そうした記事、情報を提供した担当者が本当に心からそう思い、信じ、自分も実践する中でそのような主張を展開しているのか、はなはだ疑問です。今回の国母選手問題と同様、取材対象にすり寄るための「方便」「予防線」に過ぎないと思えるのです。
 国母選手に対するメディアの節操のない「変わり身」をみるにつけ、メディア関係者の自身の影響力についての認識が足りないのではないかと思います。