マスク着脱で示されるもの

 マスク着脱が個人の判断に任されることになりました。

 ですがスポーツの現場では未だに「こんなことやるの?」ということが続いています。

 まずは、試合、大会に参加するときの名簿提出。かつて感染が拡大している頃、感染者が出たときにその人と同じ会場にいた人たちに「濃厚接触者となった可能性があります」と通知するために作成しておくことになっていたものです。それを今でもなお強制される。

 そもそも当時から、名簿に書かれた名前と実際に参加した人が実際に合致しているかどうかなど、誰も確認していませんでした。つまり、形式的に出しておきさえすればよかった。検温表も同じ。実際に検温したかどうかなど誰も確認のしようがない。提出直前に14日分の体温を適当に記入してもまかりとおっていたわけです。

 それほど「適当な」ものであっても「提出しなければ出場を認めない」という厳しい処置が待っているというバカバカしさ。

 少年サッカーの試合で、審判のホイッスルを口で「吹く」ものではなく電子ホイッスルに限定する、という決まりも、今回の「マスク解禁」の日を挟んで継続しているとある大会ルールにありました。快晴の青空の元で子どもたちが躍動する傍ら、関係する大人たちは皆、サッカーグラウンドなのにマスクを着用していました。

 学校開放のグラウンドでは、ある団体が使った後に次の団体が使う場合、入れ替え時に団体同士の接触がないように1時間!!!!!!ものインターバルを置く、などというバカバカしさに呆れ果ててしまうようなルールも未だに改変されていません。

 こうしたバカバカしいルールの全てに関して、現場では「いつまでこんなことするの?」という疑問の声が上がっています。そして、それらのルールを課す側の人間も、それに対して誰もが納得する理由を提示できるわけではなく「上からの通達で…」という責任回避の決り文句を繰り返するのみです。

 その「上の人」も含めて、皆が「おかしい」と思っていながら誰一人「変えよう」と行動する者がいない…なので理不尽と思うことでも粛々と指示されたことに従っていく…という構図が浮かび上がります。

 文科省の指導要領にはいたるところに「主体性」「自主性」という言葉が乱れ飛び、自ら考え、判断できる人材の育成こそが最大の目標であると強調されています。ですが、実際に生み出されているのは、マスクの着脱ひとつも自己決定できない主体性のかけらもない人間ということを思い知らされます。

 教育界もスポーツ界も、群れる羊のような人間を育成するためにあるのではないはずです。