SNS的「言い放ち」文字文化

 ツイッターなどいわゆるSNSが市民権を得る時代になり、誰もが自分の考え、意見を他者にに向けて自由に発信できるようになりました。 

このブログもその発信装置の一つです。不特定多数に向けて意見を発するわけですから、当然、受け手の中には自分とは異なる意見を持つ人もいるはずです。「永井の語っている事には賛同できない。けしからん」と思う人も多くいることでしょう。

 そうした「逆風」を想定するなら、架空の人物になりすましたり、素性を隠したまま言いたいことを言い放つ、という方法が一番、無難でしょう。しかし、私は名と顔とプロフィールを明らかにして意見を公開しています。世間にモノを言うなら、それなりの論拠と覚悟を持つべきであり、それがないなら批判や指摘はすべきではない、と思うからです。

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 ところが、多くのSNSは匿名ですから、自分は壁の裏に身を隠したまま相手に「言葉の槍」を投げつけるようなことが可能になります。自分の言葉や表現に責任をとる必要がない。だから、使用する言葉や表現は感情にまかせたまま苛烈になっていきます。「死ね」とか「クズ」などという忌まわしい表現が何のためらいもなく使われます。

 そうしたSNS文化にひたり切った人は、自分の素性を明らかにした場合の表現でも、文字で意見を述べる時は苛烈な言葉、表現を使いがちになっていきます。特に相手の非を追究、非難する場合、匿名で行う時と同じように、相手に突き刺さるような「言葉の槍」を投げつけがちになります。「言葉を極めて相手を追い詰める」ということに手慣れている人が増えたという印象を持ちます。

 社会学の研究で、人のメッセージの伝達において、視覚の果たす役割が55%、聴覚は38%、言語内容は7%という結果が示されています。つまり、伝えたいことの55%は「どのような顔つきや仕草で」伝えるかに左右され、38%は「口調や声の大小」などに左右され、「言葉の意味そのもの」は5%しか役に立たない、ということです。

 言い換えると表情や口調などが伝わらない文字だけのメッセージでは、「本当の意味」が伝わる可能性は5%にしかすぎない、と考えることもできます。文字面が示すたった5%のものから、本来なら含まれているはずの95%のメッセージを類推していくしかないのです。安易に苛烈な表現を使えば、本人がいくら「そこまで追い詰める気持ちはなかった」と言っても、95%は「受け取り方次第」となってしまうのです。

 私は、色々な立場でさまざまな「苦情」を受けます。その一つ一つに可能な限り誠意をつくして対応します。指摘されたポイントに対してきちんと筋道立てて説明をします。「苦情」の多くは感情的なものですから、こちらが筋道を立てて説明していくと、相手はどこかで反論の種が見つからなくなります。すると、自分がいかに不満であるかという感情的な表現を並び立て、最後に「返信は不要です」「お返事いりません」として終了する人も少なくありません。

 「あ、これツイッター方式だな」と思います。言うだけ言い放って、返されてくる内容はきっと面白くないことでろうからシャットアウトして聞かない。自分の感情発散だけはして、都合の悪いことにはかかわらない。これではコミュニケーションにはなりませんね。

 かくいう私も、このブログでの文字表現、真意が伝わるように気をつけて使っていかねばなりません。