自分が指導するサッカーの練習でのこと。ボールリフティングに類する少し難しい技術的課題を示して「目標は5回」と言いました。
ある子どもが「コーチ、これでもいいの?」と、見当違いな方法を示してきます。彼が示した方法は、確かに私の指示した「5回」という目標をギリギリ達成する「近道」ではありましたが、なぜその課題に取り組むのかという本来の「意味」から見れば、まったくもって「的外れ」な形であり、意味のない行為でした。
その子は、別の課題を提示した時も、しきりに「コーチ、これもアリ?」と自分なりに解釈した方法の是非を問いかけてきます。彼が示すものは全て、私が指示する回数や距離などを達成するための、いわば「抜け道」的な方策ばかりです。
最初は「そうではなく、このように」と一々、訂正していたのですが、提示するメニューごとにあまりにくどくどと問い合わせてくるので、「そのやり方で自分が上手くなると思うなら、そのやり方でやればいい」と突き放してみました。
こんなこともありました。まずパスをしてシュートのお膳立てをする、それが終わったら次はシュートする側に回る、という形式の練習をした時です。気をつけるポイントは、シュートする仲間にコース、強さ、角度、タイミングを考えて上手なパスをする、ということでした。
その子はしかし、パス役でボールを蹴った後は、自分の蹴ったボールの軌道や、そのパスを受けた仲間の様子を一切、見ることなく、脇目も振らずに一目散にシュートの列に向かうのです。「ねぇ、君のパスは今~君にうまく渡っただろうか?」と問いかけると、どぎまぎした顔をします。
この子のように「なぜ、それをするのか」という意味を吟味せず、ひたすら機械のように形式的に動く一方で、それを合理的に短時間でクリアする「方策」を見つけ出すことに対しては異常なまでにエネルギーを注ぐ、という子どもが増えてきました。
これは、ただひたすら一定の法則性に従って計算問題を解くスピードを養成する学習業者に代表される、「テストで合理的に正解を出す」訓練を業態とする業者たちの戦略に、子どもたちが毒されすぎた弊害と分析しています。
抜け道的な方法を使ってでも「とにかく結果として5回やればいのでしょ」という発想は、受験には役に立つのかもしれませんが、スポーツの訓練では最悪です。自分の力量と課題を棚に上げて、手抜き、省エネにエネルギーを投入するような発想は、まったくもってスポーツに向いていません。
幸い、「目標は5回」と言う私のそばで「僕、10回に挑戦してみる」という子どもがいます。「コーチ、8回できたよ」と満面の笑顔で報告する子どもがいます。「そうそう、そういう気持ちはとても大切なのだよ」。こういう子がいるうちは、まだ大丈夫かな、と胸をなで下ろします。