子どもは盆栽ではない

 先日、サッカークラブのある保護者から「どうして今の子は負けても悔しいと思わないんでしょうね?」と言われました。試合に負けても何もなかったように淡々としている子が多いと。

 「それは多分、何もかにも親が先回りして与える生活が当たり前になっているからでしょうね。自分で強く欲して、我慢して、我慢して手に入れて、むさぼるように吸収していく、という経験がないからでしょう」と答えておきました。

 この子には今~が必要だ、今のうちに~をしておく必要がある、と、子どもの意思や欲求とは関係なしに親が環境を準備することが多くなっています。溺れたら困るから水泳を習え、身を守るために必要だから空手や合気道を習え、情操教育には音楽が大事だからピアノやバイオリンを習え、計算が速いとテストに有利だから算数教室に通え...などなど。

 そこに子どもの主体的な意思はほとんど介在しないので、子どもは「言われたからやっている」「親の勧めで行かされている」ということになります。そんな活動、どれだけやっても自分自身の意思で「意欲的」に没入することなんて絶対にありませんよね。その程度の気持ちだから、負けたって平気なのです。失敗しても平気なのです。上手くならなくても平気なのです。

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 このように「我が子にこうなってほしい」という親のエゴが先行している様子をみると、私はいつも盆栽を連想します。

 盆栽は植物元来の成長を意図的に改変して、作者が「美しい」と思う姿に仕立てていきます。針金を使って枝の伸び方を矯正したり、余計だと思われる枝を切り捨てたり。その結果、本来なら太陽に向かって伸びる枝が下向きになったり、左右がひどくいびつな形になったり、という作品ができあがります。

 完成した盆栽には作者の意図が乗り移っていますが、植物側に立った見るなら、自然の法則を無視した人間による虐待ですよね。植物に意思と言葉があるなら「なんでこんなことされるんだ」と嘆くことでしょう。でもそれができないから、じっと耐えて人間の価値観で品評されることに甘んじねばなりません。 

 親主導で習い事をたくさん「やらされている」子どもは、表面上は盆栽のように親の思惑通りになっていきます。しかし、一つひとつの活動に注入する意思と集中力は希薄になり、どの活動にも一心不乱に没頭することはなく、薄く広く舐めるような活動を続けても、結局、何一つ情熱を注ぎ込むものを見つけることができずに終わります。 

 水泳の四泳法ができても海難事故に遭えば助かりません。護身術を身につけていても凶器を持った暴漢に襲われればひとたまりもありません。楽器を習ってもそれを生涯の友とする人は希です。塾で身につけた「受験術」など、社会人になれば何の役にも立ちません。

 少なくともサッカーに集う子供たちには「好きだ」「やりたい」「上手になりたい」という子ども自身の意思があってほしいものです。自分で選んだものに没入して上達していく喜びを見いだしてほしいものです。私は盆栽づくりに協力するのはいやです。