本末転倒

 受け持ちのサッカークラブ小学生の市大会が始まります。 初戦は新学年になってわずか2週間でやってきます。新しく学年担当になって、まだ子どもたち一人一人の顔と名前が完全に覚えられていない中での采配になります。

 なんでこんな新学期早々に大会をやらねばならないの?....と思うわけです。多分、この時期にやっておかないと、次に開催される他の大会までにスケジュールがこなせないから、という理由でしょう。この大会と次の大会の間には、土日に登校する学校行事も頻繁にあり、それを配慮しているとコンスタントに土日に試合ができない、だから子どもが土日に安定して集まれる時期にどんどんスケジュールをこなしていこう、ということだと思います。

 これ、昨今の日本中によくある「消化すること」自体が目的になってしまっている、本末転倒の典型ですよね。多分、大会の趣旨には少年の心身の健全な育成を...みたいなお題目が謳われていると思うのですが、こんな新学期早々に大会を催すことがその趣旨の達成に適しているとは到底思えません。

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 同じように本末転倒なのが、学校の運動会の5月開催。新しい学年、クラスなって、たった一ヶ月で運動会ってどういこと? そもそも体育の授業自体、新クラスではろくにこなしていないでしょうに。本来、学習や努力の成果を確認し、それを次の意欲につなげることがイベントの教育的意義。クラスが組まれて間もない春先にそれを開催すれば、努力や協力ではなく生来の能力の品評会という色彩が強くなりがちです。

 これも、まず「やらねばならない」という消化が目的になっている典型。本来、最も開催に適している秋に実施しようにも、他のイベント事が満載でスケジュールがキツキツになる、だから一学期に回せばいいではないか、という考え。そこ何を求めるのか、何が狙いなのかという本質はすっとばしてしまい、とりあえずどこかのタイミングでスケジュールだけはこなしました、という事実は残るのです。

 話は変わりますが、高校野球でピッチャーの投球数制限を義務化している新潟県の試みを、高野連は全国規模に広げることをためらっています。投球数によって試合中にピッチャー交代を余儀なくされた場合、二番手、三番手を用意できない学校が出てきて、複数のピッチャーを抱える学校が有利になるから、とのこと。また、有力ピッチャーに対して、ファウルを多用して投球数を稼ぎ、試合途中で降板させる作戦が使われる、などの懸念もあるとのこと。

 声高に「教育の一環」を謳っている高校野球なのだから、いろいろいな選手にピッチャーを経験させるのは本来の目的にかなっているはず。また、ファウル多用も、監督の多くが趣旨を理解している「教員」なのだから、ゆめゆめそのような指導はしないはず。しかし実態は教育、健全な心身...といったお題目など等の昔に形骸化していて、プロ顔負けの体制を整えた有力校の競い合いになっている。勝利至上主義が蔓延しているからこそ、勝ち負けのことを最初に考えてしまい、少年の肩、肘に配慮するという本来の趣旨に沿った決定を躊躇する。

 少年のサッカー大会、学校の運動会、高校野球...何でそれをするのか...という本来の目的を忘れていること、多いですよね。物事にはちゃんと「意味」があるはずです。私たちは、思考停止になって流されていかずに、常に真理と本質を見ていなければなりません。